私にとって、戦後日本におけるアメリカは、戦前日本における近代天皇制と同じような位置にあり、戦後の文化事象を考えていこうとするとき、そのほとんどの背後にある巨大な力の審級として作動しているのです。

 ですから、戦後の文化政治を分析すると、多くが結果的に「アメリカ論」になる。それでも問いの展開としては、まずは戦後日本に広がっていたさまざまな消費社会現象があり、それらを問うと、「アメリカの影」が出現してくるという順番です。

 私自身にとってアメリカ論は結果であって原因ではありません。いろいろやっていくなかで、やはり「アメリカ」という場の力学と正面から向かい合わなければいけなくなっていったのです。

――そこがはっきりしないんです。場とおっしゃいますが、先生のアメリカ論で上演論的パースペクティブがどう活かされているのかが、よくわからないというか。

吉見 そうですかね。1990年代初頭、多木浩二先生の研究会で報告したディズニーランド論は、まさしく上演論的パースペクティブの分析なのですけどね。

 そこで論じたように、アメリカの文化政治学は、文化パフォーマンスをまるごと取り込み、それを映像的な権力工学によって再編し、完全に予定調和の仕組みに組み上げてしまうような仕掛けを作動させています。

 これは、アリエル・ドルフマンとアルマン・マトゥラールが『ドナルド・ダックを読む』(山崎カヲル訳、晶文社、1984年)で論じたことでもあったのですが、そもそもヨーロッパの植民地からの独立というモメントを通じて自己形成を遂げていったアメリカの文化は、その植民地としての大衆文化的な基盤のなかでも息づいてきました。

 それがやがて、アメリカ自体が世界帝国としての意識を深く身につけていくなかで、「外部=植民地」を予定調和的な内部に仕立て上げる巨大なエンタテイメント世界となっていったのです。

 ディズニーランドは、まさしくこうした植民地的大衆文化を帝国の予定調和的な完結世界に転回させていく反転のパフォーマンスが日々完璧に演じられている場所です。

「上演」という言葉を何か人間の生身の身体だとか、パロールだとか、偶発性だとかそういうところからだけ考えていると、ディズニーランドという場がなかなか「上演」とは見えにくいのかもしれません。

 しかし私が「上演」と言っているのは、必ずしもそれ自体としては反体制的な含意とか、ミハイル・バフチン的なカーニバル性とかが不可欠なわけではありません。