映画監督・西川美和さんが助監督時代から現在に至るまで「踏み台」にし続けてきたものとは……? 国内外で高く評価される気鋭の映画監督であり、直木賞候補にもあがる名文筆家でもある西川さん。彼女が、映画製作にまつわるエピソードだけでなく、大好きなスポーツや日常の何気ない一コマを、鋭利かつユーモアあふれる視点でまとめた最新エッセイ集『ハコウマに乗って』(文藝春秋)より、雑誌「文藝春秋」連載スタート時の項(2021年3月)を抜粋・編集してご紹介します。
あとすこしほしい
読者の方には耳慣れないと思われる連載タイトル(注:「ハコウマに乗って」)をつけたので、その説明から。
「ハコウマ」というのは生きた馬ではなく、演劇の舞台や映画の撮影現場で使われる、ベニア合板などで作られた木製の箱のことをいう。「馬」は踏み台を意味し、「箱馬」と書くようである。大きさはランドセルよりちょっと縦長、ハリウッドではリンゴの木箱にたとえられ、「アップルボックス」とも呼ぶ。機材屋さんのホームページで確認すると、縦50cm×横30cm×高さ20cmのものを標準サイズにして、さらに高さの低い種類がいくつか揃っている。面に指先が入るほどの穴が空いていて、そこを持ち手にひょいと運べる作りになっており、それ以外は飾りけも愛嬌もない空っぽの箱であるが、これが現場にあるのとないのとでは撮影の融通が大きく変わってくる。
「あとすこしほしい」という時に出番がくる。カメラの三脚を目一杯伸ばしたが、あと少し高くしたい。恋人同士の男女のバストショットを作るとき、身長差を埋めて、あと少し顔の高さを近づけたい、腰掛けてちょっと一服したいが座る場所がない――そんな時には「箱馬!」のお呼びがかかる。底上げしたい高さに応じて平置き、横置き、縦置きと使い分け、大抵のモノや人の高さ調整はこれで足りる。撮影は高い堤防や斜面によじ登って行う局面などもあるが、いつの間にか誰かが複数の箱馬を階段状に積み上げてくれて、衣装を着込んだ役者も楽に行き来できる足場が作られている。「便利箱」とも呼ばれ、「ベンバコ」「バコベン」などの通称も聞く。
私自身も随分足らないところを補ってもらってきた。助監督として働いていた二十代の頃、カメラアングルや照明が整うまでの数十分、俳優の代わりにセットの立ち位置に立つ「スタンドイン」と呼ばれる役割があった。予算の潤沢なCMや海外の現場では、役の俳優と同じ身長のスタンドインのプロを雇い、似た衣装を着て立たせるそうだが、日本映画の現場では切り詰められ、助監督がその役を担う。
しかし大方の男優、女優はすらりとした高身長、153センチの私が代役で立ち位置に立つと、ファインダーを覗いたカメラマンは「ちぇっ、全然わかんねえや」と天を仰いでしまう。そのため箱馬を置いてその上に乗り、俳優の顔の高さに自分をアジャストしていたのである。しかしその場で棒立ちの芝居の場合はいいけれど、歩いて動く場面の時は、スタート地点こそ身長を合わせているものの、一歩踏み出せばがくんと凹んで153センチが歩き回ることになり、再び「ちぇっ、もう役者入れてくれよ」とケチがついた。私は踏み台となってくれた箱馬を抱えてそそくさとセットから退散、ちょっと早いんですが、と役者を呼びに行ったものだ。こうなったら現場に竹馬を導入するしかないと私は真剣に考えていた。
監督になればそんな役割からはおさらばだ。ちっちゃな頃からちっちゃいが、惨めな思いをしたくなければ権力を持つしかない――と思いきや、今でもカメラのそばから俳優の演技を見ようとすると、男性カメラマンが構えたレンズの高さに自分の身長が及ばないことが多い。離れた場所にケーブルでつながれたモニターを見ればカメラが捉える映像は正確に見られるのだが、至近距離で役者の息遣いのようなものを見ていないと気づかないこともある。三脚脇に爪先立ちになって、野次馬に埋もれた子どものようにやっとこさ芝居をのぞいていると、気の利く照明部さんや撮影部さんが黙って箱馬を私の足の下に滑り入れてくれる。「ああ、どうもすいません」。一日の撮影のうち、いったい何度この言葉を人に言うのか。いっそ首から箱馬を吊るして歩きたいよ。
時代も自分も、変わるけれど
肉体労働に近いムードの映画の撮影現場において、体格の悪い自分は形勢不利だとずっと思い込んでいたが、それも言い訳に過ぎなかったように近頃は思う。新作『すばらしき世界』の現場では大きなカメラを担ぐ撮影部にも、20kg近いライトを運ぶ照明部にも、3mのマイク竿を支える録音部にも、大型バンを何百kmと走らせる制作部にも、小柄で華奢な女性スタッフが加わっていた。みんなキビキビして、清々しくて、仕事が正確で、自らの持って生まれたものに囚われているような陰鬱さは見当たらない。
撮影ポイントまで、巨大な機材を一人で担ぎ続けるにはあまりに長い道のりの途中、上司の男性が「ちょっと代わろう」などと優しい言葉をかけているのを眺めるのもまた良いものだ。人に仕事を助けられるのは、自分の力が足りないせいだと若かった私はいじけていたが、助けてもらえるだけの信頼をこの人は築いているのだと、今は見て思う。
こんな場所はそもそも自分の来るところではなかったという思いをぬぐいきれぬまま、相変わらず箱馬に乗せてもらって高いところを眺めている。「文藝春秋」に書くことなんて私に何かあるんだろうか? とりあえず、箱馬に乗ってみます。