それぞれが自分の非を認識できる
「本当に100対0かな?」の考え
兄弟にはけんかがつきものです。「けんかの火種に名前をつける」は、平和なときに考えておくけんか対策でしたが、今回は、けんかの後の対応です。
どんなけんかでも、当事者同士が自分に非があったことを認識できさえすれば、もうほとんど解決できたも同然、と私は思っています。そこまで収束させるのは簡単ではありませんが、子どもへの伝え方をいろいろ試した中でたどりついたのが、「100分の1」のイメージ。「たった100分の1でも悪いことしたなと思う気持ちはないかな?」という問いかけです。
車が絡む事故が起きた際、双方の落ち度の割合を「7対3」などと表現することがあるかと思いますが、たとえば一方が他方を殴ったようなケースでも、たいてい双方に非があるものです。「100対0」ということはあまりない。本当に殴ったのであれば、もちろん暴力はいけませんが。けれど殴られたほうも、何かしらの原因をつくった可能性がある。本当に「100対0」かな?それともたったすこしでも、悪いことしたなという気持ちがあるかな?そんな会話に持ち込み、それぞれが自分の非を認識するのに「100分の1」がちょうど良かったように思います。
兄弟げんかは、親がその現場や発生の経緯を目撃していないケースも多いので、当事者のいずれかをいきなり責めるようなことはしたくありません。子どもの自尊心を尊重しつつ、けんかの仲裁に入るには、双方にじっくり話を聞くしかないと思っています。
最終的に、お互いに謝って終わることができればベストです。ですが気持ちの整理がつかなかったり、それをうまく言葉にできなかったりしたとしても、何となく非があったことを感じている様子が見受けられれば、それもひとつの着地のさせ方ではないでしょうか。
「自分の大切な子どもである君たちが
目の前で傷つけられるのは見たくない」
たとえば兄弟げんかで殴り合いとか取っ組み合いが発生したとき、それは2つの意味で良い機会であると思います。
1つは暴力は絶対ダメであることを伝えられること。