「自己感情」よりも優先される
「社会的アイデンティティ」

 食事会の後、終電を逃した2人の同僚がいる設定で迷惑ノイローゼを例示しよう。先輩のAさんは後輩のBさんに対し「もう電車ないよね、どうやって帰る?私は車だから、よかったら送るよ」と言うが、Bさんは「いえいえ、自分は家が近いから歩いて帰ります。大した距離じゃないし、ちょうど散歩したいし、本当に大丈夫です」と返す。

「本当に大丈夫?遠慮しなくていいからね」

「ありがとうございます。でも本当に大丈夫ですから」

 先輩の提案を感謝しつつ断る後輩。ごく普通のやり取りに見える。Aさんの提案は思いやりから生まれ、Bさんの断りは礼儀正しさから生まれているように見える。

 Bさんにとって大したことはないのかもしれないが、それでもBさんが車に乗らないのは奇妙なことだ。Bさんは徒歩で帰宅する労力よりも、先輩に迷惑をかけることへの心配をより大きな苦労と捉えているのだから。Aさんの立場も難しい。提案を押しつけすぎるとお節介と受け取られかねないし、相手が異性だった場合は下心の疑惑が浮かんでくる。

 このシチュエーションにおいて一番の問題は、両者のやり取りが「自己感情」に基づくものではなく、社会的アイデンティティの押しつけ合いになっていることである。

書影『日本のコミュニケーションを診る~遠慮・建前・気疲れ社会』『日本のコミュニケーションを診る~遠慮・建前・気疲れ社会』(光文社)
パントー・フランチェスコ 著

 日本社会的な振る舞いの特徴として、親しい人を「内」とみなして本心、つまり個人的アイデンティティを見せる一方、親しくない人を「外」とみなして、それらを一切見せないところがある。これは極端な二者択一ではないだろうか。このような対人関係のあり方は、同一性を保てない主体を生み出すリスクを抱えている。本音と建前にこうしたスイッチをつけることは、精神を不健全に追い詰めかねない。

 心理学において、社会から求められている行為を「社会的期待」(social expectations)というが、社会から求められるふさわしい反応を示さなければならないという葛藤から、社会的アイデンティティしか表出できないAさんとBさんは社会的期待に束縛されているのだ。

 たかが食後の会話から飛躍していると感じるかもしれないが、こうした日常の連続から私たちは社会的期待の罠にかかり、孤独の闇に落ちてしまうのである。