showing interestは家族、友達、恋人などの親しい間柄だけではなく、知らない他者にも可能な行為である。欧米社会と日本社会の人間関係における大きな違いの一つだが、欧米社会は知らない他者に対しても「お節介」ができる。困っている人を見れば、それが知らない人でも、余計なお世話と思われることがあったとしても、相手のパーソナルなところを「侵略」しても大したこととは思われない。

 例えば道端にカップルがいて、Aさん(女性)がBさん(男性)の攻撃的な態度に、明らかに困っているとしよう。このとき、ヨーロッパだと赤の他人であっても「大丈夫ですか?」といった確認の声かけぐらいはする。むしろ、そうしないとバッシングされるかもしれない。

 短絡的な考察は良くないが、とにかくここで言いたいのは、個人のアイデンティティを表現するポジティブなコミュニケーションのためには、ある程度お互いのパーソナルスペースへの「侵略」が必要だということだ。日本ではこの「侵略」行為のすばらしさがあまり注目されていないと筆者は考えている。それはどうしてだろうか?

 このような、侵略行為が迷惑やお節介、ひいては自己否定につながるという「恐怖」を「迷惑ノイローゼ」と命名したい。大げさに聞こえるかもしれないが、日本社会のコミュニケーションに対して問題提起したい一人の学者の、挑発を込めた気持ちが含まれていると思ってほしい。

 迷惑ノイローゼとは要するに、大したリスクがないのに、自分のせいで他者に不愉快な思いをさせるのではないかと過剰に心配することだ。これのせいで、他者に共感したい、興味を持ちたい、関わりを持ちたい衝動があっても、言葉や態度に出すことをためらい、結局は関わらないままにしてしまう。対人恐怖症に類似するところがあるかもしれない。対人恐怖症は世界的にも日本の文化依存症候群の一つとして認められ、過剰な不安から他者と関われないことを意味する。