遠慮は思いやりではなく
恐怖から成り立っている?
相手のパーソナルなスペースに入ることは「侵略」ではあるが、健康的な行為ともいえる(図参照)。

ここでの「侵略」とは、迷惑行為になることをおそれず、知らない相手の自己感情を探る能力もしくは「勇気」のことである。物理的にも感情的にも距離を詰めない限り、有意義なコミュニケーションは生まれにくい。
とはいえ無制限に相手のパーソナルなスペースに入っていいわけでもないし、立場と関係性によっては適切な距離を保つ必要があるかもしれない。相手が望んでいないときには「余計なお世話」になってしまうだろう。だから、相手の同意さえあれば自分は助けになるよ、という姿勢でコミュニケーションに臨むのが良いと筆者は考えている。
困っている他者の「心の縄張り」に足を踏み入れる行為は、相手との信頼関係を築くきっかけになることもあれば、相手を不愉快にしてしまうこともある。どちらの帰結もありうるが、必ずしも「お節介」になるばかりではない。日本社会の「迷惑文化」は相手に嫌われたくないばかりに、後者の結果をおそれすぎてはいないだろうか。
もしこの仮説が本当であれば、遠慮とは相手に対する純然たる思いやりではなく、己を否定される恐怖から成り立っている。迷惑をかけたくない、相手に嫌われたくないからパーソナルな部分には立ち入らない。言い換えると、自分の個人的アイデンティティを、自己感情を否定されたくないから、当たり障りのない社会的アイデンティティで無難な会話を選ぶ。
ちなみに、日本語の「お節介」に該当する英語はない。お節介の概念自体は「meddling」にあたるだろうが、これは直訳すると「過干渉」である。なかなかに興味深い。
「showing interest」は
ときに相手のためになる
筆者が「侵略」という一見ネガティブな言葉で示したいのは、むしろそのポジティブなニュアンスだ。英語でいうと「showing in-terest」(他者に対して興味を示す)が近いだろう。相手の事情に積極的に関わる行為である。それはあくまで、「相手のため」の意味合いが強い。お節介は相手に関わることで不愉快さを与えるリスクに注目するのに対し、showing interestは相手のためになる可能性に注目する。