1点ビハインドの8回裏2死二塁。私は前の打席でインハイの球にバットを折られながら、一、二塁間を抜くタイムリーを打っていました。ピンチに藤田元司監督がマウンドに駆け足でいくと、なにやら江川と話しました。ちょっといつもの江川の表情ではないのです。アレッと思っていると、捕手の山倉が立ち上がったのです。そのときのボールはほぼ全力投球でした。そこまで無四球で、無四球完投なら10試合目で小山正明さんと並ぶセ・リーグタイ記録でした。スタンドからは「弱虫」コールです。投げてくる敬遠のボールから怒りが伝わってきました。

 江川は続く岡田を捕邪飛に打ち取り、そのまま勝ち投手になりましたが、試合後も笑顔はありませんでした。引退してから江川とその話をしたことがあります。すごく怒ったように強いボールを投げたのは、「ホームランを打たれるより悔しかった。ファンが一番見たい勝負を避けなければいけない投手なんだ」という自分への怒りだったというのです。その言葉を聞いて、さすがだなと思いました。

書影『虎と巨人』(中央公論新社)『虎と巨人』(中央公論新社)
掛布雅之 著

 当時は私たちの勝負には紳士協定みたいなものがありました。「1球で勝負がついたら、楽しみにしているファンに申し訳ないよな」なんて冗談で話になりました。それで「俺は1球目を打たないよ」となって、江川は初球にカーブから入るようになったのです。

 最初は半信半疑だったようです。開き直って甘いカーブを投げたら本当に振らなかったので、「こいつは信用できる」と思ったらしいです。そして2人の勝負はインハイのストレートを打つか、空振りさせるかになったのです。だから名勝負というのは全く違う野球観を持っている同士か、同じ野球観を持ってる同士かで生まれるんでしょうね。江川と私は同じ野球観の持ってる者同士でした。江夏さんと王さんや、村山さんと長嶋さんは、真逆だったのかもしれません。