他球団もイチロー選手の存在は分かっていたものの、やはり「線が細すぎる」という評価だったとか。そんな未完の高卒選手を、ドラフト4位で指名する。これにはスカウトの慧眼と編成の覚悟が不可欠です。

 当時のオリックスはブレーブスからブルーウェーブへとチーム名を変え、本拠地を神戸に移転した1年目。新たな地で心機一転、市民球団としてスタートしたものの、人気という点ではまだまだ突き抜けたものがありませんでした。

 もっとドラスティックに選手の入れ替えをすればよかったのかもしれません。ただ、プロ野球について素人の会社が経営し始めたから後手に回ってしまった。

 ずるずると主力選手の引退が続いたブレーブスを引きずっていたために、変革が遅れてしまったことは否めません。イチロー選手に象徴する「新しい軍団」ができるのに数年かかったわけです。

 イチロー選手といえば仰木彬監督をイメージする人も多いでしょう。ただ、イチロー選手の育て方についての評価では、実は土井正三監督が割を食っているのです。土井さんは「イチロー選手を全然1軍に上げず、見る目がなかった」と後によく言われました。ですが、真実はそうではありません。

 土井監督も非常に早い段階からイチロー選手のすごさを分かっていました。ただ、いかんせん体が出来上がっていなかった。だからまだ使ってはいけないと思っていたのです。最近で言えば千葉ロッテマリーンズにドラフトの目玉として入団した佐々木朗希投手を、球団がじっくり時間をかけて育成してきました。それと同じです。

 半年強も続くプロ野球シーズン。いくら他の高校生よりも身体能力が高いとはいえ、プロ野球選手として1シーズンを乗り切る体力はありません。選手としての身体を仕上げる時間が必要だったのです。

前任・土井監督の辛抱が花開いた
仰木監督のもとで快走するオリックス

 仰木監督へと代わり、イチロー選手が大ブレークしたのは入団3年目の94年。シーズン210安打のプロ野球記録を樹立しました。50年に記録された191本というそれまでの記録を大幅に上回る前人未到の成績を20歳の若きスターが残し、プロ野球界の歴史を変えたのです。その後、記録は塗り替えられていますが、当時はシーズンが130試合で今よりも10試合以上少ない。イチロー選手の偉業が色あせることはありません。