信長に対する
一つの誤解

小和田:戦国武士は皆、そうです。上杉謙信も春日山城(現在の新潟県上越市)におり、どんなに遠征しても戻ってきました。武田信玄も、親子3代にわたって甲斐の躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた=現在の山梨県甲府市)から動きませんでした。

信長が平気で城を動かしたのは、実は父親が城を動かしていたからです。信長のことを突然変異で生まれた天才という言い方をする人もいますが、そうではありません。親の背中を見て、親が行ったことが良いと思えば、自分も行っています。まさに親の背中を見て子は育つという例だと思います。

【スペシャル対談】異才・織田信長にあって他の武将にはなかった「1つの発想」増田賢作(ますだ・けんさく)
歴史通の経営コンサルタント。小宮コンサルタンツ コンサルティング事業部長・エグゼクティブコンサルタント
1974年、広島市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、生命保険会社、大手コンサルティング会社、起業を経て、現在に至る。小学1年生のころから偉人の伝記を読むのが好きで、徳川家康などの伝記や漫画を読みあさっていた。小学4年生のとき、両親に買ってもらった「日本の歴史」シリーズにハマり過ぎて、両親からとり上げられるほどだった。中学は中高一貫の男子校に進学。最初の授業で国語の先生に司馬遼太郎著『最後の将軍』をすすめられたことをきっかけに、中学・高校で司馬遼太郎の著作を読破し、日本史・中国史・欧州史・米国史と歴史書も読みあさる。現在は経営コンサルタントとして経営戦略の立案・実践や経営課題の解決を支援するなど、100社以上の経営者・経営幹部と向き合い、歴史を活かしたアドバイスも多数実践してきた。本作が初の著作となる。

父親の信秀は勝幡城(しょばたじょう=現在の愛知県愛西市・稲沢市)から那古野城(なごやじょう=現在の愛知県名古屋市)、古渡城(ふるわたりじょう=愛知県名古屋市)へ移っていきました。そして信長も那古野城から清洲城(現在の愛知県清須市)、小牧山城(現在の愛知県小牧市)、岐阜城、安土城(現在の滋賀県近江八幡市)と、次に占領したい土地に近い所へと、どんどん移していきました。それで、あれほどの成功を収めたのですが、上杉謙信や武田信玄との違いは、その発想にあります。

名将は失敗から学ぶ

増田:なぜ転々と変えられるのか、他の人がしないことを思い付いたのかという疑問はずっと持っていました。父親がそうしていたからということですね。

小和田:良いところは良いと思って、見ていたのだと思います。

増田:木津川口の戦いにしても、城下の火事にしても、失敗から学び、そこから生かしていくという話でした。小和田先生の著書にも書かれているように、朝倉宗滴が「名将は失敗から学ぶ」と言っています。それ以外の武将の中で、失敗から学んでいる良い例はありますか。

失敗を経験してこそ
人間は成長する

小和田:徳川家康が三方ヶ原の戦いで武田信玄に大敗しました。8000人ほどいた家臣の約1割、800人ほどを失ったという大敗北です。そのことがあったために、かえって家臣との絆が強くなりました。むしろ、あそこで大敗したからこそ、家康は大きくなったといえるでしょう。

私が時代考証を担当した2023年のNHK大河ドラマ『どうする家康』では、そのことに少し手を入れました。徳川家康の生家・松平家の家臣団の一人で、家康に忠義を尽くした三河武士・夏目広次という武将は高齢だったため、浜松城の留守を預かっていたと、夏目家の史料は伝えています。『どうする家康』では、広次は戦いに出て行き、家康が着ていた金陀美具足(きんだみぐそく)を着せ替えさせられます。

武田軍が戦場に残っていた広次を見つけ、家康と思って首を取ったところ、違っていたという設定でした。家康は、自分の身代わりになって亡くなった武将・家臣が何人もいるのを知り、そこで初めて、自分は家臣によって守られていたことを実感し、家臣を大事にするようになりました。まさに朝倉宗滴がいうように、名将とは一度、大敗北を喫した者であるということです。家康の場合は、三方ヶ原の戦いが出発点だといえます。

※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。