若かりし頃の栄光と今の自分とを照らし合わせて、そのギャップに落ち込んではいないだろうか?他人より「仕事がデキるか」「カネを稼げるか」などの競争社会の価値観は今すぐ捨てるべきだ。そうした過去に抱いた感情と冷静に向き合い、高齢者としてのパーソナリティを再構築することが幸福な老後への近道となる。本稿は、加藤諦三『他人と比較しないだけで幸せになれる 定年後をどう生きるか』(幻冬舎)の一部を抜粋・編集したものです。
壮年期の有能さと
高齢期の有能さは別物
若い日の失敗も、壮年期の失敗も、
すべてを含めて自覚し、意識して、
それを「あれはあれでよかった」と、
すべての体験を自我に統合して自分自身になる。
人生とは、自分が自分自身になる過程である。
自分という存在について理解することの大切さがよく言われる。しかし同時に、コンテクストに気づくことも大切である。
お葬式で言われた言葉と、結婚式で言われた言葉は同じ言葉であっても意味は違う。
壮年期で言われた言葉と、高齢期で言われた言葉は同じであっても意味は違う。
しかし人はあるコンテクストで「社会とはこういうものだ、人生とはこういうものだ」と学習してしまいがちである。ことに壮年期に社会的に活躍している人はそうである。
だから大企業の役員などが、定年後に心理的に問題を抱えてしまうことが多い。
「人生とはどういうものである」という壮年期の先行情報が、次の高齢期の体験に違った影響を与えてしまう。
「人間の価値とはこういうものである」という壮年期の先行情報が、次の高齢期の体験に違った影響を与えてしまう。
その先行情報が正しいとは限らない。
少なくともその壮年期というコンテクストで正しいとしても、長い人生を生きるのに正しい情報とは限らない。
壮年期の有能さが、必ずしも高齢期の有能さではない。
よく学校の優等生が社会に出て優等生とは限らない、と言われる。学校と社会についてはなんとなく人々は納得している。
しかし壮年期と高齢期についても全く同じである。壮年期に要求されていることと、高齢期に要求されていることが同じではない。
そのことは、学校の成績とビジネスパーソンとしての能力は違うのと同じことである。
自分に気づくと同時に自分が今置かれているコンテクストに気づく。高齢になった今は、壮年期と違ったコンテクストに置かれている。
若い頃、競争社会の中で「あいつは優秀だ」とか「あいつはダメだ」とかいうことが言われる。それはそのときの、そのコンテクストの中では正しいとしても、高齢の今は違う。
高齢者は「不完全な情報による認識拘束」に注意をしなければ、失うものは大きい。
不完全な情報による認識拘束は、何も高齢者に限ったことではない。
まさに偏差値などもそうである。
IQも同じことである。ある人は決して低い能力ではないのに「低い」と思い込んでいる。
測定したときの情緒的安定によってIQは異なる。