そのままだと、テレンバッハの言うように「現存在は孤独、あきらめ、不信、強情、鈍麻のうちに、頑固さのうちに停滞してしまう」ということがある。

 そういう高齢者になったときに、周囲の人によっては、その高齢者は心理的にも負担になるだろう。

 負担は経済的負担ばかりではない。人間関係の中で、ある人が皆の負担になるということはいくらでもある。

 その人が、いつもその集団の中でのトラブルの原因になる。

 しかしその高齢者が笑顔を振りまかないでも、穏やかで満足していれば、そのメンバーの心の支えにもなる。

 高齢者になったら、「あのときには、あの人は酷い人だったな」と昔を思い出してみる。そしてそうなった人間関係の過程を考える。そしてそこにあの人の酷さと同時に自分の情緒的未成熟もあることを見つけてくることも多い。

 そうして1つ1つ、昔の恨み辛みを心理的に解決していく。

 昔を思い出しながら「あれだけ酷い人間関係の中で成長したのだから、自分が高齢になって、不信、強情になるのも無理はないかな」と思えてくるときがあるだろう。「それにしても、あの人たちは酷かったな」と思えてくる。

 もう一度思い出してみると「今考えると、あそこまで酷い人たちとは気がつかなかったな」と思えてくる。

「搾取タイプというが、あそこまで搾取する人とは、当時気がつかなかったな」と思えてくる。

「あの人は、あのように言う人だったのだ」と気がついてくる。

 そんな中でも、自分はよくここまで生きてきた。信じられないことだ。

 逆に、きっと「あの人がいたからだろうな」と、酷い自分を支えてくれた人も思い出すかもしれない。

「あの人間関係があって初めて死なないで生きてこられたのだな」と気がつく。

 その両方の人たちを思い出しながら、一つ一つ心理的未解決な問題を解決していく。

 昔の人間関係と自分に気がつく。気づきの連続、それが高齢者の生産性である。

 高齢者の生産性とは、ロロ・メイ(編集部注/アメリカの心理学者)の言う意識領域の拡大である。

 競争社会の中で閉じ込められていた自分から、自分を解放する。

 それが高齢者のパーソナリティーを改善していく。