高齢者をマイナスイメージで
捉えるのはやめよう

 多くの高齢者にとって、認知のシステムは若い頃と同じように機能し続けている。

 心理的に健康な高齢者は、新しい認知のスキルを学ぶことができる。認知が高齢になるということは、古い機能を維持するだけでなく、新しく学ぶことも可能である。

 高齢期に意見を変えられないのは、その主張によって自分の価値を防衛しようとしているからである。

 若い頃の栄光にしがみつくことで、高齢期の自分の心の葛藤を解決しようとしているからである。

 テレンバッハ(編集部注/フーベルトゥス・テレンバッハ。ドイツの精神医学者)の言うように「現存在は孤独、あきらめ、不信、強情、鈍麻のうちに、頑固さのうちに停滞してしまう」ということがある。

 高齢になって「惨めさ」を味わうことが多いということを聞く。

 しかしそれはsubjective value(主観的価値)が間違っている。

 自分で自分を惨めにしているだけである。若い頃と高齢期とは違う。

 高齢者が高齢者として扱われたからといって惨めに感じるのはおかしい。

 子どもは子どもとして扱われる。壮年期の人は壮年期の人として扱われる。

 若い頃には多くの人の注意を引いたことがあるかもしれない。それは異性間でも青年は青年に惹かれなければ困る。それが自然である。

 若者が集まって騒いでもおかしくはない。若者と高齢者とは違う。自然の流れを、「惨め」に感じるのはおかしい。

 集まって騒いでいる若者が必ずしも幸せなわけではない。

 高齢者が「惨めさ」を味わう機会が多いというのは、自分が勝手に高齢者をマイナスのイメージで解釈しているからである。

 高齢者の生産性はパーソナリティーの積極的変化である。

 人が心理的に活発になることの最大の妨げとなるのは隠された憎しみである。

 隠された憎しみがあれば、どうしても素直にやる気になれない。

 積極的、生産的になるには素直でなければならない。

過去の恨み辛みや感謝を
思い返してみる

 ではどうするか。過去の無意識の憎しみを、ゆったりとした環境になった高齢期に、思い出してみる訓練である。

 例えば壮年期に離婚をしていたとする。それを「もうすんだこと」と意識の上では思っているかもしれない。

 昔の離婚調停に納得がいかないままで、高齢期になったとする。