壮年期の価値観から
自由になることが高齢期の課題
それなのに自分は能力が低いと思い込んで、有望な将来を失う人がいる。あるいは、壮年期の能力が低いという思い込みで、幸せであるはずの高齢期を失う。
我々はいろいろな囚われによって生きている。
壮年期に必要とされる能力と高齢期に必要とされる能力とは違うのに、間違った思い込みで苦しんでいる。
それによって有望な未来を失っている。幸せを失っている。実り豊かで有望な高齢期を失っている。
「我が人生に悔いなし」と思って死ねるのに、「やろうとしていたことの一つでもしていたら『俺の人生は』また変わっていたろう」と悔やんで死んでいく人になってしまう。
高齢期の問題解決で大切なことは、事実を変えることではない。壮年期の会社生活などで囚われている脳の働きを正常化することである。
人は過去から自由ではない。
高齢期の課題は、いかにして壮年期の価値観から自由になるかである。
壮年期の成功と、高齢期の成功とは色が違う。壮年期の生産性と高齢期の生産性とは色が違う。
過去から自由になれない人は、高齢期になって、壮年期の価値観を引きずって歩いている。落ち込むことでないのに1人で勝手に落ち込んでいる。
高齢期は次々に自分に気がつく時期で、落ち込んでいる場合ではない。高齢期は自分の無意識に気がつく機会である。
若者と比較して高齢者にうつ病が多いのは、環境の問題というよりも、壮年期までの価値観から自由になれていないからである。
違ったコンテクストの中で、過去と同じ価値観で、何かを感じて、それが引き金的記憶となって壮年期の不愉快な感情が、心の中に燃え広がっている。山火事と同じである。
あるいは生ゴミみたいなものである。今味わっている感情は過去の体験から生じたものである。
不必要なものである。生ゴミは捨てればいい。高齢になるとその生ゴミに囚われる。
気難しい人間として生涯を閉じたくないなら、生ゴミは捨てる。
感情と認識の関係を理解する。
反応と刺激の関係を理解する。
まず高齢者としての自分の認識が正しいか?
高齢者というコンテクストの中での認識が間違っていれば、囚われの感情の犠牲になる。
高齢になったら、感情の再プログラムが必要である。
妄想からの解放は過去からの解放である。
過去の破壊的メッセージからの解放である。
それが感情の再プログラムである。