「仕事が遅い部下がいてイライラする」「不本意な異動を命じられた」「かつての部下が上司になってしまった」――経営者、管理職、チームリーダー、アルバイトのバイトリーダーまで、組織を動かす立場の人間は、悩みが尽きない……。そんなときこそ頭がいい人は、「歴史」に解決策を求める。【人】【モノ】【お金】【情報】【目標】【健康】とテーマ別で、歴史上の人物の言葉をベースに、わかりやすく現代ビジネスの諸問題を解決する話題の書『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、伊達政宗、島津斉彬など、歴史上の人物26人の「成功と失敗の本質」を説く。「基本ストイックだが、酒だけはやめられなかった……」(上杉謙信)といったリアルな人間性にも迫りつつ、マネジメントに絶対活きる「歴史の教訓」を学ぶ。
※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。

忠義を貫くか、組織を守るか…「意に反する部下」の意見をどう受け止めるか?Photo: Adobe Stock

意に反する部下の意見を
どう受け止めるか

松平容保(1835~93年)は、幕末の会津藩(福島)の藩主。高須藩(岐阜海津市)から養子として会津藩の松平家に入る。会津藩を承継した後、欧米列強の来航への防備などで江戸幕府を支える。その後、反幕府勢力により混乱する京都の治安を守る京都守護職に就任。新選組の名を世に知らしめた池田屋事件(1864年)や京都の市街地に大火を招いた禁門の変(1864年)で、反幕府勢力の中心・長州藩を弾圧する。幕府だけでなく、京都の治安を守ったとして天皇からも多大な感謝の意を受けた。しかし、このような弾圧は江戸幕府の崩壊後、長州藩などから恨みを買うこととなり、戊辰戦争の一戦で明治新政府と会津藩との戦いである会津戦争(1868年)では、多くの家臣とその家族が犠牲となっている。

幕末の混乱のなか、京都でテロが多発しました。江戸幕府は治安維持のため、京都にあって朝廷や公家の動向を監視し、西国全般に目配りする役職である「京都所司代」に加え、会津藩主・松平容保に「京都守護職」、つまり京都を守る役職を与えました。

この役割を果たすには、会津藩の費用負担が莫大になるとともに、反幕府勢力の長州藩から恨みを買うリスクもありました。

そのため、会津藩の筆頭家老・西郷頼母(1830~1903年)は、藩主・容保の京都守護職の就任に猛反対しました。

覚悟を持って
トップの意見に反対

筆頭家老といえども、殿様の意向に反対するのは相当の覚悟が必要です。それほどまでに会津藩にとってはリスクが高いことだったので、西郷は猛反対したのです。

しかし、容保は、祖先である会津藩主・保科正之(1611~72年)が残した「会津家訓十五箇条」の最初にある「何よりも幕府のことを第一に考えなさい」という教えに従い、反対を押し切って京都守護職に就任します。

なお、その後、筆頭家老の西郷は、容保の方針に反対したことで、家老職を一度解任されました。

部下の意見を受け入れず
大きな悲劇が起こる

京都守護職就任後も、費用負担の大きさや反幕府勢力との対立を心配した家臣から、早めに京都守護職を退任するべきだとの意見がしばしば出ました。

ところが、幕府や天皇から絶大な信頼を得ていた容保は、その意見を受け入れなかったのです。その結果、幕末の最終局面で、会津藩は長州藩などから恨みを買いました。

会津若松城を舞台とした戊辰戦争の一戦である会津戦争では、多くの家臣やその家族を失う悲劇が起こります。

とるべき道は
どちらだったのか?

会津藩の武家の少年で構成された「白虎隊」の隊士たちが自刃したのは、その悲劇の1つなのです。

一面、松平容保は、先祖に対して、幕府に対して、天皇に対して、ひたすらに忠誠を貫きました。その生き方は会津藩で大事にされてきた「義に死すとも不義に生きず」をまさに体現したものでした。

しかし、西郷頼母など家臣たちの意見を入れていたら、会津戦争での悲劇も免れていたはずです。義理堅いリーダーとしての姿と、自分が属する組織を守るための部下の意見、とるべき道はどちらだったのかと深く考えさせられます。

※本稿は『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。