騒動の中、4月17日に内閣総辞職し、4月20日に新内閣が発足する。3度目の蔵相に就任した高橋是清は、4月22日に金融債務の支払いを3週間猶予するモラトリアム(支払い猶予)令の実施を決め、22日、23日は全国の銀行を休業させ、日曜日の24日に日本銀行による無制限の非常貸し出しを要請。週明けの25日から速やかに実施することで、見事に恐慌を鎮めた。

 27年5月1日号に掲載された「猶予令下の財界」と題した記事には、

1927年5月1日号「猶予令下の財界」1927年5月1日号「猶予令下の財界」
PDFダウンロードページはこちら(有料会員限定)
『4月22日から24日までは、全国の銀行が皆休業したから、わが財界は一種の仮死状態に陥り、証券および商品の気配もほとんど見当がつかなかった。しかし既に最大の危機を経過したという気分は、どことなく漂っていた。25日から本当の意味での、猶予令下の経済生活が始まる。
(中略)
 今度の騒ぎは銀行の周囲に竜巻が起こって4日間に13行を吹き飛ばしたが、その直接の関係者以外には著しい損害は与えなかったのであるから、旋風が過ぎ去ってしまえばエライことであったナアというくらいのところに帰着する。モラトリアムが徹底的に行われれば、財界は仮死状態に陥るが、今度は局部麻痺の程度にとどまって、それ以上には至らず、全身の活動に甚だしい障害は起こるまい』

 と述べている。わずか4日間で恐慌を沈静化させた高橋は、6月2日で蔵相を辞任。3度目の蔵相就任期間は44日だった。

【16】1928年
経済界から続々と上がった
金輸出解禁を求める声

 昭和金融恐慌が一段落すると高橋蔵相は早々と辞任し、代わった三土忠造蔵相は高橋の方針をそのまま引き継ぎ、金解禁についても慎重な態度をとった。

 1928年に入ると、金輸出解禁(金本位制復帰)問題が財界で論議されるようになった。もともと金解禁は、当時の日本にとって大きな政策課題だった。

 第一次大戦の勃発に伴い、主要先進諸国は自国の金の流出を阻止すべく、金の輸出と自国通貨の金との兌換(だかん。金本位制)を停止した。日本も、それに呼応して17年に金輸出を事実上禁止していたが、大戦が終了すると米国(19年)、英国(25年)、イタリア(27年)、フランス(28年)といった先進諸国が金本位制に復帰し始める中、日本国内でもいつ金本位制に復帰するかは最大関心事となっていた。しかし、震災や金融恐慌によって国内経済が疲弊し、通貨の安定策を講じる余裕がない状況下では、政府としては金解禁の議論は先送りするしかなかった。

 そこに、金融恐慌が一段落したことで、為替相場の安定を求める産業界や、不況下で資金の使い道を失っていた銀行界から金解禁を求める声が上がり始めた。

 28年8月15日発行の臨時増刊「特別融通と経済界」では、「名士財界観」と題して多くの経営者・政治家の談話記事が掲載されている。

1928年8月15日臨時増刊「特別融通と経済界」1928年8月15日臨時増刊「特別融通と経済界」
PDFダウンロードページはこちら(有料会員限定)
『金輸出解禁は考えひとつで、今日やろうと思えばすぐにでもできる。金解禁をやれば心配だなどというけれども、われわれはそう思わぬ。要するに、政府の決心ひとつでどうにでもなるのだが、今の政府には、とてもそこまでの決心はつかぬし、第一そこまでの考えもないでしょう。金の輸出解禁などということは、もう議論のときではない。実行の問題だ』(瀬下清・三菱銀行常務:後に三菱銀行会長)

『金解禁は、金融緩慢のこの時期において断行するを良しとする一案もあるようである。なるほど国らしい国は近来、続々と金解禁をするのに、ひとりわが国のみ依然禁止しているのはいかにも見苦しいことである』(安田銀行常務・兵須久)

『金解禁前には真の財界立ち直りを期待することはできぬ。というのは、金の輸出を禁止している限り、財界は特殊の軌道の上に置かれているのであって到底着実なそろばんをとることができないからである』(日本生命専務 弘世助太郎:後の社長)

『わが経済界に、近く好景気が来るなどとは、恐らく誰も考えぬであろう。今の財界は、いわば昨今の空模様と同じことで、日が照るかと思うと曇る。降るかと思うとまた晴れる、という具合である。まず、何をおいても金解禁をやることが必要だ』(東邦電力社長・松永安左エ門)

 まさに「金解禁せよ」の大合唱が繰り広げられている。

【17】1929年
井上準之助が蔵相就任直前に
2号にわたり「金解禁論」を展開

 1929年6月21日号と7月1日号の2号にわたって「金解禁には財政緊縮が急務」という井上準之助の談話記事が掲載されている。井上は19年に第9代日本銀行総裁となり、関東大震災直後に蔵相に就任して混乱を収拾させると、27年に再び日銀総裁に就任。前述した昭和金融恐慌を、高橋蔵相と共に沈静化させた人物だ。

 当時、金解禁に関して議論となっていたのは、旧平価(17年9月以前の金本位制当時の平価:100円=49.85ドル)で金本位制に復帰すべきか、新平価(当時の情勢に合わせた平価:28年3月で100円=46.46ドル)で復帰すべきかどうかという点だった。

 28年に日銀総裁を退任していた井上は、在野の立場から、旧平価での金本位制復帰を主張していた。

1929年6月21日号/7月1日号「金解禁には財政緊縮が急務」1929年6月21日号/7月1日号「金解禁には財政緊縮が急務」
PDFダウンロードページはこちら(有料会員限定)
『結論から先に言うと、金解禁はできるだけ早くしなければならない。これをしないと日本の財界は本当に立ち直らない。
 しかし即時解禁はできない。これをやるには準備が必要である。政府が先に立って財政緊縮をやり、為替をパー(平価)に近づかせて、しかる後に解禁すべきである。――というのが私の意見である』

 円高水準の旧平価で解禁すると輸出が減少し、国民所得全体が減少して不況になるとの懸念を示す声は大きかったが、井上は解禁に当たっては緊縮財政と財界整理(産業の構造改革)を行うことで、円の価値が上がるので問題ないと主張している。

 そして、この記事が掲載された直後の29年7月2日、立憲民政党の濱口雄幸内閣が誕生し、井上は蔵相に就任する。そして井上は、金解禁の準備を猛烈な速度で進めていった。

【18】1930年
当初は歓迎された金解禁
海の向こうで始まった“大異変”

 井上は、金解禁の条件としていた財政緊縮による財政健全化を進めるために、すでに決まっていた29年度予算を5%削減。そして、産業界の構造改革も行った上で、1930年1月11日に金解禁を発表する。

 直後の1月21日号に掲載された「解禁直後の財界」という記事は、以下のような書き出しで始まる。

1930年1月21日号「解禁直後の財界」1930年1月21日号「解禁直後の財界」
PDFダウンロードページはこちら(有料会員限定)
『予定の如く、去る11日から金解禁が施された。そして、物好きな連中は、金貨の顔を見たさに当日以来、盛んに日銀本支店に詰めかけて兌換を要求する。長い間、本位貨通用の習慣を失っていた国柄だから、金貨を珍らしがるのである。明治以前までは殆んど硬貨のみを使用していた日本国民が、紙幣代用の便を知ると共に、たちまちその習慣を廃棄したのは、世界の経済史上に、特書さるべき現象であった』

 国民もおおむね金解禁を歓迎していたことがよく分かるエピソードだ。しかし実は、こうしたムードの中、不穏な動きが進行していた。

 金解禁の3カ月前の29年10月24日木曜日、米ニューヨークの株式市場は大暴落に見舞われていた。ブラックサーズデーと呼ばれる「世界恐慌」の始まりである。

 ただし当時の世界経済は、現在ほどダイナミックかつリアルタイムではつながっていない。井上も当初は、深刻には捉えていなかったようだ。むしろ、株式暴落に対応して米ニューヨーク連邦銀行など欧米の中央銀行が金利を引き下げるのを、金解禁の上での楽観材料とすらみていた。

 しかし日本経済はこの後、米国発の世界恐慌の荒波にのみ込まれていく。