「いや!宗教二世問題の議論が始まったので山上さんのお陰だ」となんとか山上被告の犯行に「大義」を見出したい人もいらっしゃるだろうが、ここは日本でありロシアや中国ではないのだから、宗教二世問題を世に問いたいならば、殺人ではなく裁判をするとか会見を開くとか、やり方はいくらでもあった。

 人の命を奪わなければ問題提起できないことなど、少なくともこの日本にはない。

「暴力の狂気」を認めてはならない
野田元首相の追悼演説に込められた想い

 ずいぶん厳しいことを言わせていただいたが、それはどういう理屈をつけても「暴力の狂気」を認めるということは許してはいけない、と思うからだ。

 筆者は20年ほど前、事件記者をしていたので、よく殺人事件の犯人と面会したり、手紙のやり取りをした。「こんなに頑張っているのに報われない」と社会を恨み、通り魔殺人をした人や、逆恨みをしてストーカーをした挙句、女性を滅多刺しにしておいて自分を「被害者」と主張する人などに会って、彼らの主張に耳を傾けてきた。

 そこで感じたのは、残酷に、無慈悲に人の命を奪った人ほど「正義感」が強いということだ。奇妙に聞こえるだろうが、自分のやったことを棚に上げて、殺した相手は自分の心を踏みにじったとか、いかに自分は不幸な人生を送ってきたとか、とにかくあれが悪い、これが悪いということを並べ立てて怒りをあらわにする。彼らの「正義」は、自身の「暴力の狂気」を正当化する免罪符のような位置付けだった。

 安倍元首相が亡くなった後、国会で立憲民主党の野田佳彦氏が追悼演説をした中で、こんなことをおっしゃっていた。

「あなたの命を理不尽に奪った暴力の狂気に打ち勝つ力は、言葉にのみ宿るからです」

 まったくその通りだと思う。暴力で世界を変えるということの愚かさ、傲慢さを忘れないためにも、我々は「言葉」によってこのような暴力やテロを否定し続けなくてはいけないのではないか。

(ノンフィクションライター 窪田順生)

安倍元首相銃撃から2年たっても変われない日本、「暴力の狂気」への同情はいつ消え去るのか?