お寺の住職一家だけでなく、近所の婦人たちが、できるかぎりのご馳走を作って特攻隊員たちをもてなして、心をこめて接待しました。

 親身の世話をした住職の夫人、寿賀さんを、若い隊員たちは「お母さん」と呼んで慕いました。ふたりの娘、初江さん、静枝さんたちも寿賀さんを手伝いました。

 西往寺に保存されている特攻隊員の名簿などを見ると、第七十五振武隊、第七十四振武隊、第百二振武隊、第七十二振武隊、第六十四振武隊の五隊、のべ59名(うち生存6名)が、つぎつぎに、この寺に宿泊しています。

 死の出撃を間近にした特攻隊員たちにとって、この寺での明け暮れは、いのちの残り時間を数えるような日1日であったろう、と私は思います。息のつまるような刻一刻ではなかったろうか、と――。

 ところが、若い特攻隊員たちは、違いました。なかでも、第七十二振武隊の少年飛行兵たちは明るく、朗らかにふるまって、土地の人々を驚かせました。(中略)

 西往寺の長女、初江さん(当時23歳、勤労挺身隊に勤務・故人)から、桐生の荒木丑次さん宛てに書きおくられた封書が、荒木幸雄伍長の姿を伝えています。

「此の度、御宅の息子様は、特別攻撃隊七二振武隊員として隊長様以下十名、おいでになり、九日間滞在に成りました。
 其の間、毎日々々、元気一杯朗らかに過ごされました。とくに幸雄様はお年も若く、戦友の方々からも幸ちゃん、幸ちゃんと可愛がられておられました。(後略)」

 次女の静枝さん(当時17歳、のち佐世保市在住)はその春、女学校を出て、村の農業協同組合で働いていましたが、家では、特攻隊員たちの食事を運んだりして手伝いました。

「七十二振武隊は、みなさん、明るかったです。身のまわりのことは自分でなさって。洗濯物は裏の川で洗って、庭の植木にかけて干されていました。
 隊長の佐藤さんが温厚な方でしたから、若い隊員の方たちもなれ親しんで、早川さんなんかは、自分が隊長より先に一番機になって突っ込むんだと言って……。
 私は、端切れの布で『特攻人形』を作ってみなさんにさしあげました。間もなく死んでゆかれる若い方たちを慰め、励ますのにそんなことしかしてあげられませんでした。
 一番若い荒木幸雄さんは、私と同い年でした。いよいよ、出撃と決まった日、基地から私物を入れた行李が送られてきました。その整理をしていて、これ、シーチャンにあげるよ、とハーモニカをくださったんです。ここでは、ハーモニカを吹かれる時間もなくて、残念だったと思います。おとなしい、やさしい方でしたよ」

 荒木幸雄伍長自身は、修養録にこう記しています。(中略)