渡辺さんは結婚前から妻を尊敬しており、妻を参院議員に押し上げようとしていたが、政治家経験がない自分のほうが先に国政に進出することになった。外的に見れば、県議の妻より、衆院議員の渡辺さんのほうが格上だ。だが、夫婦の間で険悪な雰囲気になったり、渡辺さんが上から目線に転じたりしたようなことはなかったという。

 妻との関係性が変化するのを危惧することがなかった数人の駐夫は、妻から駐在が決まりそうな話を打ち明けられると、同行をほぼ即決していた。彼らは、自分の実力や仕事環境では海外赴任は実現しなかったとした上で、海外に住むきっかけをつくってくれた妻への感謝を口にしていた。

マッチョな自分を演じてしまい
自縄自縛に陥る夫たち

 これとは別に、夫婦いずれも駐在や留学を希望し、先に決まったほうに、もう片方が同行することを決めていた2人の駐夫がいる。彼らが口を揃えたのは「妻のほうが圧倒的に優秀だった」、「妻のほうが私よりも、出世が早い」だった。

 男が男であろうとするためには、精神面における男性らしさを意味する男性性が重要な役割を果たす。男の存在意義とは何なのか。そもそも、夫婦の間に上下はあるのか。主や従はあるのか。社会の縮図である夫婦間においても、男性が優位である必要はあるのだろうか。あるいは、女性が優位に立つこともあるのだろうか。

 駐夫と妻のほうが自分より稼いでいる男たちの事例から、考えるべき視点は少なくない。世の男性は、男性性という強力な呪縛にあまりにも囚われているがゆえに、どこかで無理が生じているのではないか。妻との関係性において、自然体で相対するわけではなく、マッチョな自分を何とかして演じようとするばかりに、長時間労働然り、自らを苦しめる要因を否応なく受け入れざるを得ない。まさに自縄自縛に陥っていないだろうか。