常連客の精神科医が
山下清を宿に連れてきた

 話題性に事欠かない、いわば超売れっ子の山下清が、なぜ田舎の温泉旅館のためだけに作品を制作したのだろう。

 実は「辰巳館」の常連客に、山下清の後見人である精神科医の式場隆三郎がいた。深津さんが式場医師に相談すると、間もなくして式場医師は山下清を「辰巳館」に連れてきたというから、お客さまさまである。

 時に昭和35(1960)年、山下清38歳。

 日本中を放浪することで、日本各地の温泉に浸かり、温泉の力を知っていた時期である。またヨーロッパの10数カ国を約40日間スケッチをして回る旅を目の前にしていた。

 深津さんと式場医師が打ち合わせする横にいた山下清の振る舞いを、深津さんが回想する。

「客室から見える谷川連峰と利根川の渓流をずっと眺めていました。それも1時間以上、一言も話さずに、ただ景色を眺める山下清画伯の姿を見て、よく飽きないものだなと感心したのを覚えています」

 山下清が「辰巳館」に滞在中、弟の辰造と深津さんの3人で谷川の山へスケッチに出かけたことがある。

 深津さんは山下清が描くための画用紙を持ち歩く係だった。

「山下清画伯は、スケッチが完成しなくても、興味がわく風景やものと出合えば、描きかけのスケッチを投げ捨て、私から画用紙を取り、新しいスケッチを始めました。弟さんは、画伯が描き散らしたスケッチ画を拾って歩く。そんな珍道中を3人でやっていました」

 深津さんが笑みを見せ、思い出深げな表情をするのは、スケッチ行脚のお昼時のことだ。

「画伯は白いご飯を大きくにぎったおにぎりが大好物でした。澄んだ空気をご馳走に、みんなでおにぎりを腹いっぱい食べました」

 深津さんが清と宿で夕食を共にした時のことだ。

「ビール瓶の栓を開ける音に、山下画伯が驚いて、走って逃げたことがありました」

 どこまでも無垢な山下清である。

 数日してから、山下清はたくさんのスケッチ画を持ち、暮らしていた八幡学園(養護施設)に帰って行った。

 2カ月ほどして、「大峰沼と谷川岳」と題されたはり絵が完成した。