半世紀以上も大切に守られる
壁画に清の心象風景が見えた

「大峰沼と谷川岳」は、澄み渡った青い空に白い雲が浮かび、トンボが飛んでいる。木々の葉は紅葉に色づき、陰影なども表現され、秋の夕暮れを彷彿とさせる。遠くに見えるのは谷川岳だろう、山の頂に白いものが見えるのは、すでに初雪が降ったという設定か。

 絵の中央には大きな沼が描かれ、沼にはボートが浮かび、こいでいる2人は親子だろうか、恋人同士だろうか。沼で釣りをしているのは、お父さんと娘のようだ。

 秋の好日を人々が愉しんでいる風景である。実に平和な光景に、私は数々の温泉入浴で会得した「温泉で幸せになる」ということを表した絵なのだろうかと推測する。

「実際には大峰沼はボート遊びは禁じられており、沼周辺が散策できるのみです」と深津さんが教えてくれた。

 スケッチを行ったのは春先でもあり、「大峰沼と谷川岳」は山下清の心象風景だったのかもしれない。

「初めて完成した絵を見た時、本当に感激しました。思い描いたお風呂場の絵でした」と、深津さんは嬉々として語ってくださった。

 深津さんいわく「お風呂の理想の絵」を山下清が制作した。

 今度は、それを壁画にする作業が待っていた。丹念で精密な山下清の絵を壁画で再現するのは、至難の業である。

 深津さんと山下清と式場医師は横浜のガラス工場に何度も足を運んでは、はり絵の色のタッチをガラスで再現できるか、繰り返し試みた。

 繊細な絵の再現は難航を極めたが、その制作チームに美術工芸家の手塚昇も加わり、特殊ガラスを使用した。

 完成までに約50日間を要した。最後は「山下清」というサインを黒いガラスで作り、はめこむ作業だった。

 こうして昭和36(1961)年、「辰巳館」に「はにわ風呂」が完成した。

大壁画「大峰沼と谷川岳」がある、辰巳館の「はにわ風呂」同書より転載

「あれから半世紀以上になります。手が届かないところはブラシで、あとは人の手で掃除をしています。お客様に『よくもっているね』と言われますが、父が情熱を注ぎ、ご縁で完成した風呂は時代が変わっても色褪せないですね」(現社長の深津卓也さん)

「辰巳館」には「大峰沼と谷川岳」以外にも、水彩とマジックを用いた「はにわ風呂」「宴会のひととき」等、多くの山下清作品が残っており、廊下に展示されている。

山下清画「宴会のひととき」(宿提供)同書より転載