原作と映画版の違い
主人公・八虎になぜ感情移入するのか 

 夜遊びしながらも成績優秀で、周囲の人たちとも良好な人間関係を築けている男子高校生の八虎は、その生活にどこか空虚さを感じていた。絵を描くことの魅力に開眼するも「絵は趣味でいいのではないか」と、いわゆる“現実路線“の懸念が大きな葛藤となって立ちはだかってくるほど真っ当な“凡人”であり、そんな自分を痛いほど自覚している。

 しかし美大受験を決意し、“凡人”たる自分が自分なりの工夫で“天才”たちと同じ土俵でしのぎを削る努力を、悩みながらも重ねていく。その努力の原動力は「絵を描きたい」というシンプルな衝動であり、その八虎の姿には手放しに応援したい気にさせられるはずである。

「絵を描きたい」という衝動に従って美大受験を決意したことは八虎にとって大きな一歩ではあったが、「好きな物を『好き』と言うには勇気がいる」といった芸術家らしからぬ、しかし一般の人が抱きがちな迷いがあったり、作品制作の上で「器用に、なんとなくそれっぽいもので取り繕おうとするクセ」に悩まされたりする。つまり感性はとことん一般人に近いので、芸術家然としていないところが共感しやすく、また八虎の挑戦を見ごたえのあるものにしている。

 原作およびアニメの八虎は、饒舌で基本的に明るいが、映画の八虎は寡黙である。内面のたぎる炎だけをそのままとし、漫画と映画ではまったく別のキャラ造形だが、これがよくハマっていたように思う。「喋らない主人公」はゲームでよく使われる手法だが、プレイヤーが感情移入・自己投影しやすい。映画『プルーピリオド』は2時間超の作品で、原作・アニメからするとかなり駆け足の構成なので、「金髪・夜遊び」といったやや尖り気味の属性を持つ主人公に冒頭から感情移入するには、この八虎の“寡黙”は効果的だったように思う。

 また、八虎を演じる眞栄田郷敦さんの演技が非常に良くて、台詞の少なさを補って余りある雄弁さがあった。そしてこの眞栄田版八虎のたたえる内省的な雰囲気が、この映画のテーマのひとつである「自分自身への問いかけ」と実によくフィットしていたのであった。