我々は、人生の3分の1ほどを睡眠に費やしている。仕事や勉強、娯楽などに多くの時間を割くために睡眠時間が削られることは多々あるが、はたして「睡眠時間=ムダ」だと言えるのか?過去の事例や睡眠にまつわる実験結果を通じて、“起き続ける”ことの価値とリスクについて考察する。※本稿は、バイロン・リース/スコット・ホフマン著、梶山あゆみ訳『この世からすべての「ムダ」が消えたなら:資源・食品・お金・時間まで浪費される世界を読み解く』(白揚社)の一部を抜粋・編集したものです。
シェイクスピアも哲学者セネカも
「時間のムダ」を嘆いてきた
私たちは時間にとりつかれている。『オックスフォード英語辞典』の編纂者が調べたところによると、英語の名詞の中で最も使用頻度が高いのは「time(時間)」だという。「year(年)」が第3位であり、「day(日)」と「week(週)」もトップ20に入っている。
私たちが時間に執着するのは、いかにそれを重視しているかの表れであり、裏を返せばそれだけ時間をムダにしたくないということである。私たちが時間のムダを気に病むのはいまに始まったことではない。およそ400年前に書かれたウィリアム・シェイクスピアの『リチャード2世』では、主人公のリチャード2世がこんなセリフを吐く。「私は時間を浪費した。そしていまや時間が私を浪費している」
しかし、「時間のムダ嘆き隊」に加わったのはシェイクスピアですら遅い部類に入る。2000年ほど前、古代ローマの哲学者セネカは次のように記した。「われわれの生きる時間が短いのではない。われわれが時間を大いに無駄にしているということだ。人生は十分に長く、余さず正しく投ずれば最高の成果を得られるだけの時間がわれわれには潤沢に与えられている。しかし、その時間を無頓着な贅沢に浪費したり、良からぬ活動に充てたりすれば、死という最後の強制によってようやく気づかざるをえなくなる。過ぎたことすら知らぬ間に時は過ぎさってしまったのだと」。興ざめセネカと呼ばれていたのも無理はない。
生存に必要で楽しければ
睡眠はムダな時間ではない
1日はちょうど24時間しかなく、この条件は素晴らしいことに地球上の誰にとっても平等である。その費やし方をどう選択するかはひとりひとり違っている。だが、私たちが全体として24時間をどのように使っているかに目を向けて、ムダかもしれない時間がどれくらいあるかを考えてみたい。
順当なところからいって、まずは睡眠から始めよう。これがほかの何よりも私たちの時間を奪っている。仮に私たちが1日9時間眠っているとしよう。80年生きるとして、毎日9時間の睡眠をとっていたら、一生のうち30年を寝て過ごすことになる。では睡眠はムダな時間だろうか。ムダだといえるのは、睡眠が避けられるものであって、しかも楽しくないとみなされている場合に限られる。睡眠が生存に必要なものであり、人がそれを楽しいと感じるならムダではない。