しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、『だまされるということ自体がすでに1つの悪である』ことを主張したいのである。

 だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から『不明を謝す』という1つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた1つの罪であり、昔から決していばっていいこととは、されていないのである。

書影『勇気論』(光文社)『勇気論』(光文社)
内田 樹 著

「だまされること自体がすでに1つの悪である」という伊丹のこの言葉は、カルトの被害者についてあてはめるとたいへん残酷な言葉のように聞こえるでしょうけれども、僕は傾聴すべき知見だと思います。

「人を見る目」があれば、相手が政治家であれ軍人であれ教師であれ、あるいは宗教家であれ、簡単にはだまされない。「人を見る目」を養い、その人の地位や社会的威信や学識などにかかわらず「信用できない人間は信用しない」という見識を肚にしっかり納めておけば「日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていた」というような無残な事態は避けられたはずです。

 このきびしい言葉は、当時の日本人の耳にどう届いたのでしょうか。たぶん、あまり届かなかったのだろうと思います。届いていれば、いまの日本が「こんなありさま」になっているはずはないからです。