すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、『だまし』の専門家と『だまされ』の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、1人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。

(…)私は、試みに諸君にきいてみたい。『諸君は戦争中、ただの1度も自分の子にうそをつかなかつたか』と。たとえ、はつきりうそを意識しないまでも、戦争中、1度もまちがつたことを我子に教えなかつたといいきれる親がはたしているだろうか。

「自分は騙された被害者」と
いばっている場合ではない

 いたいけな子どもたちは何もいいはしないが、もしも彼らが批判の眼を持つていたとしたら、彼らから見た世の大人たちは、1人のこらず戦争責任者に見えるにちがいないのである。

 もしも我々が、真に良心的に、かつ厳粛に考えるならば、戦争責任とは、そういうものであろうと思う。(…)

 だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。

 だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう1度よく顔を洗い直さなければならぬ。