1980年代後半からのバブル経済の起点となったプラザ合意後、円が高騰し、日本経済は一時的に円高不況に陥った。そして、政府はこれを打開するため、金融緩和という易き道に逃げた。以降30年間、日本を今なお苦しめ続けるバブル崩壊の本質について、ケネディクス顧問の川島敦氏が解説する。※本稿は、川島敦『100兆円の不良債権をビジネスにした男』(プレジデント社)の一部を抜粋・編集したものです。
プラザ合意とはなんだったのか?
金融緩和という日本の分岐点
見ておかなければならないのは、バブルの起点となったプラザ合意とは何だったのか、ということだ。
プラザ合意とは1985年9月22日、先進5カ国(G5)蔵相・中央銀行総裁会議でなされた合意のことを指す。日米英、西ドイツとフランスの5カ国が米ニューヨークのプラザホテルに集まり、ドル高を是正するため外国為替市場に協調介入することで合意した。これがプラザ合意。舞台がプラザホテルだったのでこの名がついた。
会議には米財務長官ジェイムズ・ベイカー、英蔵相ナイジェル・ローソン、西ドイツ財務相ゲルハルト・シュトルテンベルク、フランス経済財政相ピエール・ベレゴヴォワ、そして日本からは竹下登蔵相が出席した。世界経済の大きな転換点となった会議だったが、会議そのものは淡々と20分で終了した。
プラザ合意後、即座に各国はドル売りに動き出す。合意前のドル円レートは1ドル240円台。これが1985年の年末には1ドル200円台にまで円が高騰、1987年年末には1ドル120円台にまで円が上昇した。ドル高は見事に解消され日本企業は輸出競争力を失い、日本経済は一時的に円高不況に陥った。