そして、この円高不況を打開するため政府が打ち出したのが金融緩和だ。これが分岐点だった。政府は日本産業の「構造改革」を推し進め、強靱なものづくりの力を蓄えさせ、為替に翻弄されない輸出産業の育成を目指すべきだった。1986年に発表された『前川レポート』もそう指摘していた。

 しかし、日本は易き道に逃げた。日銀による低金利に誘導される形で資金の流動性が一気に上昇し、だぶついたマネーは土地や株式に流れ込んだ。投機が加速し空前の財テクブームが発生し、バブル経済が始まった。

金融緩和と積極財政が
バブル経済の引き金に

 プラザ合意のそもそもの出発点はドル高。米国の都合だった。1981年に米大統領に就任したロナルド・レーガンは「小さな政府」「強いドル」政策を打ち出し、インフレを抑制するためにドル金利を20%に上昇させた。

 世界中の投機マネーが米国に集中しドルが高騰、米国は財政赤字が累積するとともに貿易収支の赤字も増加する「双子の赤字」が悪化し続ける状況となっていた。米国は保護主義の動きを強め、プラザ合意によるドル高是正で状況の打開を図ろうとしたのだった。