不動産ファンド「ケネディクス」元社長が、バブル崩壊直後に「52棟のワケあり物件」を売り抜いた秘策写真はイメージです Photo:PIXTA

バブル崩壊によって100兆円もの不良債権が生まれたなかで、不動産ファンドビジネスは急拡大。不動産ファンドマネージャーの川島敦氏が担当したのは、大阪の大規模案件「マッセ・バルク案件」だった。まとめて落札した52棟もの“ワケあり”物件を、彼はいかにして売り抜けたのか?※本稿は、川島敦『100兆円の不良債権をビジネスにした男』(プレジデント社)の一部を抜粋・編集したものです。

関西の“バブル紳士”が破綻
残った52棟がファンドへ

 100兆円もの不良債権を処理していく中で、破綻系不動産会社といえば、関東では「AIDS」、関西では「FOKAS」とよく週刊誌等に書かれていた。関東のAIDSとはA=麻布建物、I=イ・アイ・イ・インターナショナル、D=第一不動産、S=秀和。いずれも1兆円以上の負債で破綻。

 関西のFOKASは、F=富士住建、O=オギサカ、K=川辺物産、A=朝日住建、S=末野興産、といった超大口の債務者。富士住建は今でも存在するが、それ以外はすべて破綻した。

 不動産会社に限らず、金融機関、保険会社、小売業、商社、メーカーの合併や破綻は、ものすごい量の全国の不動産をバルクで提供した。それをまるで墓場のダンスのように貪る。ファンド業界はダンスを踊り続けた。

 この中で関西のS=末野興産の事例を取り上げる。

 1991年、銀行主導で共同債権買取機構という不良債権の受け皿会社が新設され、各金融機関がオフバランスしたい不良債権を大量に売却した。さらに1999年には不良債権の抜本的な処理をするために政府主導で整理回収機構(RCC)を設立。これによって、銀行の見かけ上の不良債権額を減らす(オフバランスする)だけでなく不良債権の担保物件の「最終処理」が始まった。