ですから、標準語の中にちらっと方言が入ったりすると、妙にその人に人間味を感じてしまうわけです。自分の本当の気持ちを吐露する時は、方言が内から湧き出てくる、これは当たり前のことなんでしょう。

 知人の奥さんは京都生まれの京都育ち、しかし東京での生活が長いので、今ではすっかり標準語を話すそうですが、子どもたちのケンカが収まらない時など、「あんたら、ええかげんにしよし!」と怒鳴って、怒ると彼にも、「ほんまのこと言わへんかったら、叩くえ!」と言うそうで、叩いて、叩いて、という気持ちになる、と怒られていてもちょっと嬉しいそうです。わかりますねー。

「都会」は「過去の多い女」
芥川龍之介の秀逸な比喩

 初めて次の文章を読んだ時は、ヘェー、あの芥川がこんなことを書くんだ、と思わず読み返しました。

 如何に都会を愛するか?――過去の多い女を愛するように。(芥川龍之介「都会で」)

「都会」と「過去の多い女」。共通する言葉がいろいろ思い浮かぶでしょ。僕も身近な人たちに聞いてみました。

「華やかさ」「洗練」「忍耐」「手練手管」……学生の1人は「とりあえず楽しんだらいいんじゃないんですか」と言いました。

 ま、そうですよね。

 それはさておき、客観的に東京を捉えたこの文章とは違って、芥川がもっと主観的に東京への思いを書いた一文があります。

 彼が東京を離れた投宿先の一の宮(千葉県)から、彼女(塚本文)に宛てた手紙、ラブレターですが、あの芥川が「東京がこいしくなると云うのは(略)東京にいる人もこいしくなるのです」などと書いています。