最初の私大差別論争は、1920(大正9)年9月15日、山形高等学校(編集部注/戦後、新制の国立大学として発足した、山形大学の母体の1つとなった旧制高等学校)の第1回新入生である鈴木務の投書「山形高校へ入学の記」が呼び起こした。
山形高校はこの年水戸高、佐賀高と同時に設置された新設校で、校舎は山形中学(現・山形県立山形東高校)に間借りし、専用の図書施設もない状態だった。当時の山形市は人口5万に満たない小都市で、仙台二中出身の鈴木は、学生が食事できるようなカフェや飲食店もなく「何から何まで不自由至極」と漏らしている。
「不自由な田舎町」の高校が
約6倍の受験倍率になった
しかし鈴木の投書の目的は、地方新設校のお粗末さを告発することではなかった。むしろ強調されるのは、この「不自由な田舎町」に全国どころか朝鮮や台湾からも大量の受験生が殺到したことである。実際、志願者1176人に対して入学者200人、倍率は6倍近くに達した(『文部省第48年報』)。地元紙は、華族の受験者が3人もいたことを誇らしげに書き立てたという。