ポイント経済圏20年戦争

日本初の共通ポイント、Tポイントを2003年に立ち上げたカルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)にとって、最大のミッションとなったのが加盟店網の拡大である。だが、草創期の加盟店開拓は悪戦苦闘の連続だった。”救世主”となったのが紳士服チェーンの青山商事である。『ポイント経済圏20年戦争』から一部抜粋し、同社がTポイント陣営に参画した経緯に加え、「洋服の青山」で誕生した画期的な販促策を明かす。(ダイヤモンド編集部)

※この記事は『ポイント経済圏20年戦争』(名古屋和希・ダイヤモンド社)から一部を抜粋・再編集したものです。

Tポイントの加盟店開拓は難航
洋服の青山が「救世主」に

 2003年秋、カルチュア・コンビニエンス・クラブ(CCC)は日本初の共通ポイント、Tポイントをスタートさせた。だが、当初はポイント経済圏の要ともいえる加盟店網の広がりは限られていた。加盟店開拓に苦戦が続く中で、”救世主“となった企業の一つが、紳士服チェーンの青山商事である。

 Tポイントを考案した笠原和彦が同社に声を掛けたきっかけは、青山商事創業者の青山五郎との縁である。広島県出身の青山は、64年に青山商事を設立し、年商2000億円に迫る日本一の紳士服チェーンを一代で築き上げた。郊外型紳士服チェーンという日本初のビジネスモデルは流通業界の常識を覆した。

 笠原と青山を引き合わせることになったのが、93年に日本経済新聞大阪本社で開かれた講演会である。メインスピーカーに青山が、サブのスピーカーに笠原が招かれたのだ。講演会の後、経営者として大先輩に当たる青山に笠原はお礼の手紙をしたためた。すると、青山からは自身の経営哲学をつづった著書『非常識の発想』が送られてきた。その後も、笠原は何度か青山と顔を合わせていた。

 Tポイントがスタートすると笠原は、当時会長だった青山に直談判する。青山は、「宮武に連絡してほしい」と告げる。富士銀行(現みずほ銀行)出身で、番頭格である社長室長の宮武真人のことだ。05年7月、笠原は宮武をパイプとして、青山の長男で当時専務の青山理と、執行役員の松川修之にTポイントを売り込む。

 笠原は2人にTポイントについて説明し、こう付け加えた。「『1業種1社ルール』なので競合他社とは組みません」。青山理と松川の理解は極めて早かった。

「面白そうだからやってみよう」。青山理はわずか4カ月で加盟を決断する。青山商事のTポイント参画は、加盟店開拓が難航し、窮地にあった笠原にとってまさに「救い」となった。

 06年2月、青山商事でTポイントの取り扱いがスタートする。開始後、数字を見た笠原はがくぜんとする。通常、導入直後のポイントカードのレジでの提示率はせいぜい15%程度だ。だが、「洋服の青山」では40%近くに達した。紳士服業態は、試着などの接客時間が長く、顧客に声を掛けやすい。まさに理想的なタッチポイントだったのだ。

 新規会員の獲得も目覚ましかった。そもそもTSUTAYAの主要顧客はレンタルビデオを借りる20~30代の若年層である。洋服の青山の顧客も、就職活動などに合わせてスーツを買う若年層が多い。両社の顧客層が重なり、高い送客効果を発揮したのだ。

 青山商事が第1号となった施策がある。それが、ポイントの「倍付け」キャンペーンである。青山理らは新年度を控えた年度末にポイント5倍キャンペーンを打ちたいと笠原に打ち明けた。

 それまで笠原に倍付けという発想はなかった。Tポイントを起点に新たなマーケティングのアイデアが生まれたのだ。キャンペーンの原資は青山商事が負担する形でトライしてみることが決まった。06年12月から3カ月ほど実施されたポイント5倍キャンペーンの威力は絶大だった。同社が毎年似たようなキャンペーンを展開するようになったのが、その証左である。

 倍付けキャンペーンはCCCにも思わぬ恩恵をもたらした。青山商事が原資負担だけでなく、CCCへのシステム手数料も5倍分支払ったからだ。06年度、Tポイント事業は予算未達が確実な情勢だった。だが、青山商事の5倍キャンペーンで予算を一挙にクリアした。まさに神風だった。倍付けキャンペーンの破壊力を目の当たりにした笠原は、ほかの加盟店にも横展開をしていく。今や当たり前となった倍付けという新たなマーケ手法は一挙に広まっていくことになる。(敬称略)