自分の中にある「闇」を照らす光

 自分自身の影と向き合うことは、非常につらいことです。しかし、影と向き合わずに放っておくと、それは勝手に一人歩きを始め、自分自身を大きく脅かすものになりかねません。

 浄土真宗の宗祖親鸞は、その影を生涯見つめ続けた宗教家だったといえます。自分自身の影を冷徹なまでに見つめており、「自分の心は、その内側には愚かさを持ちつつ、外見では賢く振る舞っている」(『愚禿鈔(ぐとくしょう)』)と述べています。そして、親鸞は、そのような私をも阿弥陀仏の光は照らしていると説きます。

 無碍(むげ)の光明は無明(むみょう)の闇を破する恵日(えにち)なり

 これは親鸞の著書『教行信証』に登場する言葉です。「無碍の光明」とは、阿弥陀仏の光であり、決して影を作り出さない光です。親鸞は影ではなく、「闇」という言葉を用いていますが、その仏の光は煩悩の「闇」(無明)を破るのだとおっしゃっています。

 当連載の第15回で、「のぞみはありませんが ひかりはあります 新幹線の駅員さん」という掲示板の言葉をご紹介しました。これはユング心理学の大家である河合隼雄氏の著作に出てくる言葉です。これは、「私たちが希望を失っても、常に仏さまの光明は照らしている」と解釈できます。以前、NHKの「ブラタモリ」の中で、タモリさんが、自身が一番お気に入りのお寺の掲示板の言葉として紹介していました。

 この世界の中には影もありますが、光もあります。仏さまの光(仏教の教え)を通して自分自身の影(闇)をごまかさずに見つめる姿勢を、終生大切にしたいものです。