駅員のなにげない言葉に
こちらはご住職が投稿されてきたものですが、心理学者の河合隼雄さんの逸話に基づくもので、名言集にも載っている言葉です。
新幹線の駅員さんに、「のぞみはもうありません」といわれて絶句した河合さんは、その後に「ひかりはあります」といわれ、なんと素晴らしい言葉だ!と感激されたそうです。
ユング心理学の大家であった河合さんがとりわけ鉄道好きだった、ということではないようです。駅員さんも、「のぞみは終わり、ひかりならまだあります」と事実を述べただけなのでしょう。終電近くならありうる話しです。
普通の人なら「そうですか。仕方ないな」で済ませるところでしょうが、こうしたなにげない言葉に、河合さんは感銘を受けました。
望みはなくても、ひかりがある
なぜか。患者さんから自殺をほのめかすような切羽詰まった電話を受けていたから、らしいのです。学会で出張していた河合さんは、自分が駆け付けたからといって何ができるのかと思いながらも、とにかく夜遅い時間の新幹線の切符売り場に来た。そこで耳にした駅員さんの「のぞみはなくても、ひかりがある」という言葉に希望を見出したのでしょう。
仏教的に解釈すると、わたしたちが希望(のぞみ)を失っても、仏さまの「ひかり」はわたしたちを照らしています、と受け取れます。
仏さまのさまざまな智慧や慈悲のはたらきは「ひかり」と表現されます。それに対して、わたしたちはみな無明(むみょう)とよばれる大きな煩悩(ぼんのう)の闇を抱えています。普段はなかなか仏さまの光の存在に気づきませんが、煩悩の闇を照らす仏さまの智慧や慈悲の光は存在するのです。
浄土真宗の親鸞がよんだ和讃にも「煩悩によってわたしたちは仏さまの慈悲のひかりを見ることはできないけれども、常にひかりは私たちを照らしている」という内容のものがあります。
2つ目の標語は「仏の光明を合掌して受けとめられる人に生きる喜びの心が芽吹く」というものです。わたしたちの目には見えない仏さまのひかり。そのひかりを、素直に感謝の気持ちとともに受け止められるような人間でありたいものです。
(解説/浄土真宗本願寺派僧侶 江田智昭)