誰が、そんな「疲れる人」のそばにわざわざいたいと思うでしょうか。
ここで私がイメージするのは「足湯」です。
そもそも水は低いところに溜まります。足湯というのは、言ってしまえば低いところに溜まったお湯に過ぎません。ことさら人に賞賛されたり、崇められたりするものではありません。
でも、人はそんなところに安らぎや癒やしを求めて集まってきます。
じつは「人より上に立っていること」が自分のアイデンティティになってしまうのは怖いことです。「肩書き」「立場」といった不確かなものによりかかると、それが取り外されたとき、自分が自分でなくなったかのような絶望を感じてしまうからです。
しかも、いつも「その地位がおびやかされるのではないか」と心配になり、落ち着いていられません。
しかし、低いところに自分がいれば、それだけで人を安心させる効果があります。
野村総一郎 著
もしかしたら、そんなふうに謙虚でいることで信頼を集め、人気者になったあなたに「リーダーになってほしい」「みんなの中心になってまとめてほしい」といった依頼が舞い込むかもしれません。
老子の別の教えに「敢て天下の先と為らず、故に能く器の長を成す」というものがあります。「人々の先頭に立たないからこそ、リーダーになりうる」といった意味の言葉です。
武田信玄や明智光秀、織田信長や豊臣秀吉など戦乱期の武将たちは激しく戦い、人の上に立つことを目指しました。
しかし結局は「待ち」の一手を貫いた徳川家康が天下を平定し、長きにわたって世の中を治めることとなりました。
ガツガツと上に登っていくのもそれはそれでアリですが、人から強く信頼され、長く愛されるのは、人を温め、堂々と下にたゆたう、足湯のような存在なのかもしれません。
上の立場にいる人を見て、焦ったり、羨んだりすることはない。本当の意味で人を安心させ、癒やしを与えているのは「上」ではなく「下」にいる人。