大和南部の小国の王として出発して、大和を統一し、吉備や出雲まで支配下に置いた崇神天皇は、卑弥呼の跡を継いだ宗女・壱与と同時代人で、250年前後の即位とみられる。それ以前は、日向からやってきて橿原の地に小さな王国を建てた神武天皇から、親子継承が9回行われたとされる。

 フランス王家では初代ユーグ・カペーから11代も父子相続が連続していたから、ありえないわけではないが、記憶が十分伝承されていなかった可能性もある。

 崇神天皇以降は、父子継承が原則だが、長男優先とは限らない。母親の出自も大事な要素だった。即位は30歳以上を条件とし(例外は近親がいなかった武烈天皇のみ)、生前退位はせず、子どもが若すぎたら、兄弟や女性がつないでいた。

 継体天皇については新王朝ともいわれる。だが、仁徳天皇の男系子孫が絶えたので、その父である応神天皇の男系子孫のなかから母系でも前王朝に近かった有力者が即位しただけだ。継体天皇が仁徳朝を征服して天皇になったのなら華々しい武勇伝があるはずだが、それが皆無なのは決定的な傍証だ。

 聖徳太子が即位しなかったとか、大化の改新のあと天智天皇がなかなか即位しなかったとかいうのも、前述の30歳の原則で説明できる。壬申の乱時の弘文天皇は即位していなかったと思う。この原則が崩れるのは16歳の文武天皇即位の時だ。

 初の生前退位は、大化の改新時の皇極天皇だ。大化の改新で皇極天皇がいったん退位したことで実現したが、626年の唐代に起きた玄武門の変で、髙祖から太宗に生前退位したことが影響したのでないか。

最初の女帝となった
推古天皇は突然の出現ではない

 推古天皇は最初の女帝であるが、突然の出現ではない。女帝について詳しくは別の機会に説明したいが、『日本書紀』でも、神功皇太后(開化天皇の男系子孫)は事実上の女帝として扱われているし(「女帝ではない」としたのは大正時代)、武烈天皇の後に飯豊皇女、宣化天皇の後に山田皇女を即位させようという動きもあった。

 もともと男性で年齢的にも妥当な皇位継承者がいないときに、皇后や皇女が政務を預かることもあったが、文字の普及が進んだ時代の推古天皇に至り、正式に君主(当時はスメラギなどといっていたはず)として公式に扱うことになったのでないか。