正気じゃないけれど……奥深い文豪たちの生き様。42人の文豪が教えてくれる“究極の人間論”。芥川龍之介、夏目漱石、太宰治、川端康成、三島由紀夫、与謝野晶子……誰もが知る文豪だけど、その作品を教科書以外で読んだことがある人は、意外と少ないかもしれない。「あ、夏目漱石ね」なんて、読んだことがあるふりをしながらも、実は読んだことがないし、ざっくりとしたあらすじさえ語れない。そんな人に向けて、文芸評論に人生を捧げてきた「文豪」のスペシャリストが贈る、文学が一気に身近になる書ビジネスエリートのための 教養としての文豪』(ダイヤモンド社)。【性】【病気】【お金】【酒】【戦争】【死】をテーマに、文豪たちの知られざる“驚きの素顔”がわかる。文豪42人のヘンで、エロくて、ダメだから、奥深い“やたら刺激的な生き様”を一挙公開!

「え、この歳でこれを書いたの!?」三島由紀夫が描いた“死とエロス”の衝撃イラスト:塩井浩平

45年という短い生涯

三島由紀夫(みしま・ゆきお 1925~1970年)
東京生まれ。本名・平岡公威(きみたけ)。東京大学法学部卒。代表作は『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『憂国』など。祖父は樺太庁長官、父は中央官庁・農商務省に勤める官僚で、裕福な家庭で育つ。学習院初等科に入学するも病気がちで、祖母の影響から読書をして過ごす。父には作家を目指すことを猛反対されていたが、昭和16(1941)年、弱冠16歳にして『花ざかりの森』が国文学雑誌『文藝文化』に掲載されデビュー。東大卒業後は大蔵省に入るが、9ヵ月ほどで辞めている。多くの作品を執筆し、戦後の日本文学に多大な影響を与え、ノーベル文学賞候補にもなる。昭和45(1970)年、東京の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に乗り込み、45歳で割腹自殺

三島由紀夫は、満年齢と昭和が重なる昭和元年の生まれです。昭和20(1945)年の終戦時は、20歳の青年でした。

昭和の時代とともに生き、45年という短い生涯のなかで、非常に凝縮した作家活動を残し、そして最後は一瞬で逝きました。

三島もまた人間の「性」「愛」にとり組み続けてきた作家です。

「人間の死」と深く結びつく「エロス」

昭和21(1946)年、東大在学中に川端康成の自宅を訪れて以来、三島にとって川端は師匠のような存在でした。

また、三島は谷崎潤一郎の作品も愛読し、「エロス」を徹底的に描いてきた大先輩2人の背中を見て文学的に成長をしたのです。

しかし、三島は川端とも谷崎とも異なる「エロス」を表現しました。三島にとってのエロスは、「人間の死」と深く結びついているという点で独自性をはらんでいます。

ヒョロヒョロの青瓢箪

ここで簡単に、三島の作品に大きく影響している「幼少期」を振り返りましょう。

三島は学業優秀だったものの、身体がとても弱く、“ヒョロヒョロの青瓢箪”という言葉がよく似合うような子どもでした。

孫を溺愛する祖母が、孫に本を読み聞かせることが多く、外に出て男子の友だちと遊ばせようとしなかったこともあり、運動は苦手でした。現代風の言葉をあてがうと、“ヘタレ”という感じかもしれません。

若干16歳でデビュー「天才が現れた」

中央官庁の官僚だった父には、作家を目指すことを猛反対されていましたが、子どものころから小説や詩を熱心に書いていました。

そして、学習院中等科在学中の昭和16(1941)年、弱冠16歳にして短編小説『花ざかりの森』を執筆。学校の先生が文芸仲間の国文学者・蓮田善明に三島の書いた小説を紹介したところ、蓮田は自身が創刊した文芸誌『文藝文化』に掲載し、三島は作家デビューとなったのです。

蓮田は以後も作品をとり上げ、「天才が現れた」と文学界で話題になりました。三島は“一発屋”で終わることなく、短編から長編まで、その後も精力的に執筆活動を続けます。

※本稿は、ビジネスエリートのための 教養としての文豪』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです。