ライブドア証券などの新興勢力も入り乱れた熾烈(しれつ)なプラットフォーマー争いは2000年代後半まで繰り広げられたが、最終的には後発勢は軒並み撤退するか吸収されるかして、歴史からその姿を消した。その結果、SBI、楽天、マネックス、松井に、KDDIが完全子会社化したauカブコム証券(25年2月に「三菱UFJ eスマート証券」に社名変更予定)を加えた5社で業界勢力図はほぼ固まった。

 順位こそ変動したものの、顔触れ自体は黎明期から変わらなかったことになる。この過程で、野村證券やSMBC日興証券などもインターネット取引に注力しようとした時期があったが、結局最後まで存在感を発揮することはできなかった。

 過熱する値下げ合戦により、一時は業界全体が疲弊しかけたこともあった。しかし、ネット証券で業界首位となったSBI証券は現在600億円レベルの営業利益を安定して生んでおり、SBIホールディングスの収益を支える屋台骨となっている。2位の楽天証券にしても300億円弱の営業利益を確保できており、これらを手中に収めたのはSBI北尾氏、楽天三木谷氏の慧眼(けいがん)であろう。

 さて、こうしたネット証券各社の競争の恩恵を受け、私が株デビューを果たした05年時点の株取引の手数料は、自由化前の1/10程度に低減した。

 これによって、数日から数週間の持ち越しを行う「スイングトレード」、エントリーしたその日のうちに手仕舞いをする「デイトレード」、デイトレよりもさらに時間軸が短く、数分から場合によっては数秒のうちに反対売買を行う「スキャルピング」といった、それまで存在し得なかった新しい短期売買の手法が急速に認知されていくようになった。

 元々いた個人投資家の間にデイトレが広まっていったというよりは、デイトレという新手法が新たな投資家を大量に呼び込んだ格好で、破壊的イノベーションが業界に活力を与えた好例ではなかっただろうか。

 大半の読者がこの記事を読むのに使用しているであろうスマートフォンは、この時期まだ登場していない。モバイルインターネット環境はあるにはあったが、貧弱だったため、オンライントレードをするにはパソコンとインターネット回線が事実上必須であった。

 だが、この頃のパソコンとインターネットというとまだまだオタクの所有物というイメージが強く、決して一家に一台というレベルにはなかったため、必然、入ってくるのはアーリーアダプターな若者が中心であったように思われる。

 デイトレ黎明期に参入、台頭した若手トレーダーの中には、後に著名な投資家となったBNF氏やcis氏、テスタ氏などもいた。いずれも年齢は20代前半から中盤で、ジェイコム株の誤発注事件で20億円を稼いで時の人となったBNF氏の場合、大学在学中に億の資産を築き、中退してそのまま専業投資家になったとみられている。

 今でこそ私も最古参投資家の一角を占めている。だが、楽天証券に初めて口座を開設した時にはBNF・cis両氏は既にインターネット上で有名人となっており、後に続く億トレ(資産1億円以上を築いた個人投資家)も続々と現れていた。

 黎明期における数年というのは相当なアドバンテージであり、05年に日本株の取引を始めた私は、彼らのような真のパイオニアに対して強い出遅れ意識を持っていたことは事実である。

 それでも、06年1月のライブドアショックまでは新規参入者が後を絶たず、株を買えば誰でも勝てるという好調な地合いが継続した。05年5月からのたった半年であったとしても、初心者のうちにこのボーナスステージに立ち会い、それなりのもうけとともに勉強期間とすることができたのは非常に幸運であったろう。

 もう少し参戦が遅ければ今日の自分はなかったかもしれない。それぐらい、初期の地合いとそれによる成功体験は重大な意味を持つと思っている。

初期のデイトレは「手法」に新規性があり
気付いただけでも収益チャンスがあった

 この世代で成功した投資家に共通した特徴として、パチプロ、スロプロ上がりが多かったということを指摘する声がある。確かにcis氏、テスタ氏は年間1000万円を超えるほどの利益をパチンコやスロットで稼ぎ出していたようだし、同じような経験を持つ同時代のトレーダーの話はそれなりに耳にする。

 よくいわれるのは、パチスロ時代に培われた「期待値」を追求する姿勢がデイトレで勝つのに必要な資質として共通していたのではないかという説だ。もちろん、その年の若者にしては潤沢な種銭があったことも大きな優位性となっただろう。また、パチスロ→デイトレと乗り換えられる時点で、世のもうけ話に対するアンテナが高く、行動力があったことの証左でもあろう。

 近年の例でいえば、初期の仮想通貨では取引所間のアービトラージなどでほとんどリスクを負わずにもうけられる機会が多くあったと聞く。そこでもやはり目端が利く若者がひともうけしたようだが、出始めた頃のデイトレはそれに近い扱いだったのではないか。

 トレードのセンスうんぬんよりも、デイトレという手法そのものに新規性があり、そこに気付いただけで収益機会があったようなイメージだ。

 その代表格ともいうべき存在がHANABI氏(後に株之助と改名)である。彼が特集された04年9月放送のテレビ東京「ガイアの夜明け」は多くのトレーダーに影響を与え、デイトレブームの火付け役と呼ばれた。

 この番組の冒頭で紹介されたのは、「名古屋ドル紙幣ばら撒き事件」の名称で知られる騒動だ。2003年に経営破綻した「あしぎんフィナンシャルグループ」の投機で短期間のうちに巨利を得たとされるデイトレーダーが、名古屋テレビ塔から大量のドル紙幣をばら撒いて耳目を集めた。1999年には米国で発生したアトランタ銃乱射事件も盛んに報道され、日本でもデイトレの存在は徐々に認知が進んでいた。

 そんな折、20代にして300万円の元手から2年で2億円の資産を築いた彼のサクセスストーリーは、デイトレのポテンシャルを世に一段と広める契機となり、多数の模倣者を生むことになる。同時期、うり坊氏や三空氏、三村雄太氏などもカリスマデイトレーダーとして名を上げ、メディア出演や出版などで業界を盛り上げた。

 とはいえ、当時はスマホもモバイルインターネットも満足になかったのだから、今から考えればデイトレブームといっても参加者はかなり限られていたのではないかと思われる。それでも当時の熱狂はすさまじく、まるで日本中がトレード熱に侵されていたのではないかと感じるほどの勢いがあった。

 その巨大な渦の中心にいたのがライブドア創業者のホリエモンこと堀江貴文氏と、村上ファンドの村上世彰氏であったことは間違いない。堀江氏はニッポン放送の買収を巡る騒動とプロ野球への参入、村上氏は同じくニッポン放送買収と阪神電気鉄道の株買い占めで世間から大きな注目を浴び、連日テレビに登場してはお茶の間を沸かせていた。

「手数料自由化」「ネット証券の台頭によるトレード革命」「新しいスターの誕生」などにより新興市場はバブル化していった 「手数料自由化」「ネット証券の台頭によるトレード革命」「新しいスターの誕生」などにより新興市場はバブル化していった Photo:Bloomberg/gettyimages

 長期低迷から底打ちして急上昇していった株価を背景に、経済界のニュースターの登場、続々と生まれる若き株長者たちと専業投資家という斬新なライフスタイルが大いに受けて、メディアはこぞって株関連の特集を組んだ。テレビ、ラジオ、新聞、雑誌、どれを見ても株のことが扱われなかった日はないというぐらいに株ブーム、ひいてはデイトレブームが全国へと広がっていったのである。

 こうして、06年1月のマザーズ指数(現東証グロース指数)2800ポイントという狂乱の史上最高値へと駆け上がる舞台は整っていく。この新興市場バブルは全て、手数料自由化というトレード革命が時代に生み落とした副産物であった。次回以降では、そのお祭り騒ぎの一部始終を更に深く掘り下げてみたい。

【プロフィール】
かたやま・あきら/1982年生まれ。2005年に65万円で株式投資を始め、17年には資産140億円に到達。その後はヘッジファンド運営、事業投資、スタートアップ投資に活動の幅を広げ、近年は自己資金の運用に加えてディーリング事業を立ち上げ、後進の育成も積極的に行っている。現在の総資産は約160億円。