四谷の聖イグナチオ教会前にさしかかったとき、鐘楼で慶祝の鐘が鳴り、100人の聖歌隊が「君が代」と「皇太子様おめでとう」を歌った。神宮外苑の並木道を過ぎ、最終コースの青山通りに入ると、青山学院前で美智子妃の母校・聖心女子学院の生徒、卒業生、保護者ら800人が祝福の声を上げた。
美智子さまが45年経っても忘れられない
“あの日“の覚悟とは?
明仁皇太子と美智子妃は沿道の左右に手を振り続けた。テレビ局は各所に移動カメラレールを設置。馬車の夫妻、とくに美智子妃の表情を克明に追い、視聴者は現場以上の臨場感を得ることができた。美智子妃は70歳を迎えた際、このときを思い返して次のように述べている。
「もう45年以前のことになりますが、私は今でも、昭和34年のご成婚の日のお馬車の列で、沿道の人々から受けた温かい祝福を、感謝とともに思い返すことがよくあります。東宮妃として、あの日、民間から私を受け入れた皇室と、その長い歴史に、傷をつけてはならないという重い責任感とともに、あの同じ日に、私の新しい旅立ちを祝福して見送ってくださった大勢の方々の期待を無にし、私もそこに生を得た庶民の歴史に傷を残してはならないという思いもまた、その後の歳月、私の中に、常にあったと思います」
この日の新聞の街頭インタビューでは「お2人が仲よく日本の象徴として、国の精神的な中心としてすごしてほしい」という意見と「伝統ある皇室に新風を吹き込まれたのだから、これを機会に古い慣習を破り民衆の中にとけ込まれることが望ましい」「美智子さんが雲の上の人とならずに、いつまでも国民の身近にいらっしゃるよう願います」などの声があった(4月11日付け毎日新聞朝刊)。
特別な存在であるが、庶民に近くあってほしい。引き裂かれるような要望に「皇室と庶民の歴史に傷をつけてはならない」と、日本国民すべてに責任を負うような悲壮な覚悟が美智子妃にあった。
午後3時20分、馬車列は予定ぴったりに東宮仮御所に到着した。初めて2人になったとき、明仁皇太子から美智子妃に歌のことについて「ありがとう」との言葉があった。