そんな大倉は、芸術界の“京大”といわれる難関、「京芸」の略称で知られる京都市立芸術大学音楽学部の出身だ。その後フランスで研鑽を積んで帰国。今、関西音楽界の注目の的、期待される若手として、静かに、深くその名が知られつつある音楽界の新たなるスターだ。

 その大倉の通り名、ニックネームは「エンツ」という。この曰くを、大倉と大学入学同期の「京芸62期生」出身の女性ピアニストが謎解きしてくれた。

「まるで跳ね馬を思わせるような華麗な鍵盤さばき。それでいつの間にかEnzo(エンツォ、これを略してエンツ)と皆が呼ぶようになったんです」

フェラーリ創設者を彷彿とさせる
新進ピアニストの正体

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 クルマ好きならばこの通り名にピンとくるだろう。「跳ね馬」のエンブレムで知られるイタリアの自動車メーカー、フェラーリ。その創設者はエンツォ・フェラーリ(Enzo Ferrari)である。

 エンツォは1898年にイタリアで板金工の次男として生を受けた。子どもの頃、裕福に暮らした時期も一時期もあったものの、その時期を除いた大半の青年期は、病と貧困に喘ぎ、不幸に見舞われる苦難続きの青春時代だった。

 まず18歳で父を病気で亡くす。そして兄を戦争(第一次世界大戦)で失う。エンツォもまた胸膜炎に罹る。徴兵に取られてすぐのことだった。結果として戦地に赴くことこそなかったが、代わりに病院のベッドで死線を彷徨う時期が続く。

 やがて病は癒えた。だが、ときは戦後の混乱期。職にありつけない。さらなる塗炭の苦しみがエンツォを襲う。

 しかし、そんなエンツォを取り巻く状況は、傍目に見れば過酷な境遇ではあるものの、エンツォは持ち前のバイタリティーでこれを跳ね返す。

 彼には今日で言う「オーガナイザー」としての才能があったのだろう。クルマの世界で根を張りたかったエンツォは、当時の自動車業界ではリーディングカンパニーとして知られていたフィアット社とその関係者に目をつける。そして彼らがよく集まる酒場を調べ、毎夜、ここへ通った。