そこでエンツォは、誰彼構わずクルマとレースについて自らの思いを語る。これはただ、青年が実現性のない夢を語るというわけではなく、今で言えばれっきとしたビジネスでの提案、プレゼンテーションといった色彩が濃いものだったようだ。やがて彼のプランに賛同、それを実現しようという人物にも恵まれる。
人を惹きつけてやまない魅力がエンツォにはあった。やがて彼を中心として人の輪ができる。そして、それはエンツォの人脈として拡がっていく――。
これがエンツォ・フェラーリの出世物語の序章である。その後の人生はよく知られた通りだ。世界に知られる自動車メーカーを育て上げ、バブル真っ只中の1988年、90歳でその生涯の幕を閉じた。後半生では長男を失うという不幸にも見舞われている。その人生は逆境に晒され続けたものだった。
超エリートなのに
メインストリームを歩けない理由
人を惹きつけてやまない魅力を持ち、大勢の人が集い、その人の輪の中心にいる――令和の時代の今、関西音楽界のエンツ(エンツォ)こと大倉にもまた通じるところがある。
確かに大倉は、クラシック音楽界の名門「京芸(京都市立芸術大学)」の学部と大学院を出ている。それも大学院修士課程は首席で卒業。そのままフランスの音楽院へ留学という経歴だけを見れば、この世界において超がつくエリートであると思うだろう。特に音楽の世界を知らない者であればあるほど、そう思うはずだ。
だが大倉が身を置くクラシック音楽界では、この彼の経歴をもってしても界隈のメインストリームを歩かせてはもらえないという。その理由を前出の「京芸62期生」の女性ピアニストが気の毒そうな表情を露にしつつ語った。
「確かに子どもの頃からピアノを習い、コンクールなどにも出場、入賞もされています。でも、高校は普通科のご出身。いわゆる『音高(音楽高校)出身』ではありません。率直なところ、よくそれで京芸に入学できたなと……」