往復2カ月、滞在1カ月の大旅行で、江戸訪問の年は1年のうち4分の1は商館長が出島にいないことになります。江戸日本橋の薬種問屋長崎屋に滞在した一行はここで江戸の蘭学者(杉田玄白や前野良沢)などと交流し、長崎屋は「江戸の出島」と呼ばれていました。
浮世絵画家の葛飾北斎は、商館長から浮世絵の注文を受け、作品を描いています(オランダやフランスの美術館に所蔵)。北斎の浮世絵版画『画本東都遊』「長崎屋図」では江戸の庶民がオランダ人を見ようと集まっている様子が描かれています。
黒船来航にはそれなりに驚いた江戸庶民も、外国人にはさほど驚かなかったのではないでしょうか。
黒船来航前から慣れていた外国船
沖合で密貿易までする猛者も
さて、外国船打払令は1825年になりますが、それよりはるか前にも外国船の打ち払いが命じられている記録もあります。
18世紀、新井白石が「正徳の治」と呼ばれる改革政治で、財政支出削減策の一つとして、長崎での貿易を制限したのですが、これをきっかけに密貿易をする外国船がしばしば日本の沿岸(九州や西日本の太平洋側)に出没するようになりました。新井白石は「唐船打払令」を出して密貿易を阻止しようとしたのです。
1705年から1791年にかけて、なんと150隻以上の外国船の沿岸出没が記録されています(『北九州市史「近世」巻]』p728~744参照)。
これら外国船の出没に対して、諸藩は沿岸の漁村・農村に異国船の来航を報告させたり、対応を指示したりしており、人々は外国船との接触に慣れていました。それどころか、「出合交易」と称して、沖合で外国船と密貿易をしていた人々もいたのです。
幕末においても同様で、そもそも1825年の外国船打払令が出される以前は、沿岸に出没した外国船には燃料と食料、水を与えて長崎への回航や退去を「案内」しており、さらには後の薪水給与令を通じて、多くの沿岸の庶民は外国船を目撃、場合によっては沖合での密貿易をおこなっており、そういった庶民にとっては、1853年のペリー来航は、突然降ってわいた驚愕の事件でもなんでもなく、諸藩も外国船との接触に際するマニュアルを作成しており、庶民たちにも外国人と接触する「心構え」があったと言えるでしょう。