たとえば房総半島の漁民や農民は、ペリーが来航する前に、蝦夷地の警固に動員されていますし、幕府が諸藩に江戸湾の警備を命じたときに、その藩の農民たちや沿岸の漁民たちも「お手伝い」として駆り出されていました。

 幕府の役人や諸藩の大名、武士たちだけでなく、多くの庶民たちも「危機感」を共有していたのです。

恐れより興味津々だった江戸の人々
花火を楽しむように黒船を見物

 名主や村役人たちの中には海防差配役を命じられた者も多く、積極的に外国の情勢を知ろうとし、林子平の『海国兵談』や工藤平助の『赤蝦夷風説考』など外国情勢を記した書物が広く読まれるようになっていました。

 幕府や藩は、こういった人々に役職も与え、体制内に取り込みながら、地域の情報収集、沿岸警備などの海防を強化していたのです(『黒船がやってきた』岩田みゆき/吉川弘文館「歴史文化ライブラリー」)。

 もちろん、江戸という大都市に近い浦賀に、軍艦4隻が来航したわけですから、戦になるのでは、とおそれた人々が家財道具をまとめて逃げ出すという騒ぎもありましたが、時が経つにつれて、おもしろがって黒船を「見物」に出かける民衆も数多くいました。

 また、ペリーは大砲を撃つというデモンストレーションを幕府に対しておこなった(しかも事前に通告していた)のですが、最初は驚いた江戸の町人たちも、やがて湾岸に見学に集まるなど、あたかも「花火」を楽しむように見物しています。

『くつがえされた幕末維新史』(さくら舎)『くつがえされた幕末維新史』(さくら舎)
浮世博史 著

 ところで、ペリー来航時の混乱を詠んだ狂歌、

《泰平の眠りを覚ます上喜撰、たった4杯で夜も眠れず》

 という歌は、教科書にあまり掲載されなくなったのをご存じでしょうか。内容が不正確だから、という理由です。

 何が不正確かというと、ペリーは確かに4隻の軍艦を率いてきたのですが、そのうち蒸気船は、ペリーの搭乗していたサスケハナ号とミシシッピ号だけで、プリマス号とサラトガ号は帆船でした。

 しかも、ミシシッピ号は機関の不調から自走できず、サスケハナ号に曳航されての浦賀来航でした。蒸気船が4隻であったと誤解されないために、この狂歌は教科書から消えてしまったのです。