いつもいつも、子どもが「あれをしたい」「ここへ行きたい」「これを食べたい」というのを、「今はダメ」「それは危ない」「体に悪い」「忙しい」「我慢しなさい」「行儀が悪い」と断ってばかりいたのではないでしょうか?いくら理屈で正しいことでも、子どもは「親は自分が望んだことを何もしてくれなかった」と感じるでしょう。
「しつけのために」「健康のために」「安全のために」と、子どものことを考えてのことかもしれないけれど、それは子どもにとってはちっともうれしいことではありません。
「赤い飴がもっと食べたい」と言えば、祖父母は食事の前だろうが、食品添加物が入っていようが、砂糖が多すぎようが、すぐに与えてくれる。親は「いまお菓子を食べれば食事が食べられなくなる」「虫歯になったらどうするの」「添加物は体に悪い」と、「正しい理由」を山ほど見つけて「ダメ」と言うことが多い。
我が家では「子どもの言うことをきいてやる」という役割の多くを、祖父母が負ってくれましたが、親であっても、大きな害がないものならば、祖父母のように、言うことをきいてあげたらいいと思います。
家内は、子どもを叱ることはたくさんありましたが、「私が、心からいっしょうけんめいに子どもに頼んだときは、なんでも言うことをきいてくれた」と言います。
基本的なところですべて子どもの願いをかなえてやるのだ、という気持ちは、どんなしつけよりも子どもに届きやすいのです。
「自分の願いを聞いてもらった」
という経験の多さが大切
全部はかなえられなくてもいい。
スーパーマーケットに買い物に行って、「あれが欲しいこれが欲しい」とせがまれて、全部買うことはできないでしょう。でも、「ひとつだけ好きなものを買ってあげるから選んでいいよ」という気持ちになればそれでいいのです。
小さなことでも、自分の願いをきいてくれた、希望をかなえてくれた、という経験の多さが大切なのです。

佐々木正美 著
「なんでも認める」「すべて許す」というのは、あるとき突然に始めるのではなく、乳児期から始まることです。その前提がなくて、成長してから「放任」のような形で、なにもかもわがまま放題にさせるというのは意味が違います。
なんでも買ってあげるとか、無制限にお金を与えるとか、どんな乱暴も許すという意味ではありません。こうしたことをする以前に、幼いときにすべてを受容してあげてほしいということなのです。
親に願いと希望をかなえてもらった、いつも許してもらえた、という経験によって、ある段階で必ず大人の言うことも理解し、叱られなくても自分で判断して悪いことはやめる、ということができるようになります。