体育関係者たちは「無邪気な体育擁護論」に行き着く

 しかし、学生たちは「体育が嫌いなのは恥をかかされるからというのは、本当にその通りだと思います」「私も数学嫌いで…周りに劣って……公開処刑という気分は共感できる部分は多いです……」と述べつつ、「嫌いでもやってみたい、楽しそうだから少し参加してみたいと思えるような場づくりから授業を始めるべき」とか、「クラスのみんなで授業を行う意味をもっと考えてほしい」と、結局は無邪気な体育擁護論に行き着くのです。

 しかし、ちびまる子ちゃんが「体育の授業は人間形成において学校教育の中でとり入れなければならないほどの重要な役割をどのへんに秘めているのであろうか(注)」とつぶやいているように、問題の本質は教科としての成立根拠を人間形成と関わってどう根拠づけるかという点にあります。
(注:さくらもも子、ちびまる子ちゃん.1987、第一巻、p.47)

「恥をかく」という人格形成上、極めて深刻な打撃を与える教科、人心に「怨」を刻み込むような教科、そしてちびまる子ちゃんが「体育禁止令」の発布を切願するような教科を、私たちはどう自分事として引き受けていくのか。

 不遜を承知で言えば、教科としての体育は本当に必要なのですか。体育は何を教え育てる教科なのですか。体育がなくとも子どもは育つのではないですか――。

 それを考え抜くことが生涯を懸けた問いであると肝に銘じたいと思っています。