当時の女性に求められてきた固定観念を拒んだことで、ユーミンは同様の立場にある他の人々の模範となった。1980年代には、結婚や出産を経た後もキャリアを続ける女性歌手が大幅に増えた。
『14番目の月』は、音楽制作における女性の役割を拡大する、もうひとつの重要な変化を例示するものでもあった。本作がリリースされた頃から、歌謡曲業界は女性の作曲家や作詞家をより頻繁に起用し始めたのである。
当初はすでにパフォーマーとして人気のあるシンガー・ソングライターのみを起用していたが、次第に一度もパフォーマンス経験のない女性に楽曲を依頼することも増えていった。三浦徳子、阿木燿子、松宮恭子といった作詞家たちは、1970年代後半から1980年代にかけて女性歌手のために数多くのヒット曲を生み出した。
彼女たちの音楽制作プロセスへの参加は、多くの女性歌手のイメージに影響を与えた。たとえば、山口百恵が自らの楽曲の作詞家を選べるようになった時期から、阿木は「横須賀ストーリー」(1976)を皮切りに多くの作詞を手掛けることとなった。
阿木が関わったこれらの楽曲は、山口百恵のイメージを、「モノ」として性的に描かれた少女から、自信に満ち溢れた女性へと変化させることに成功し、山口百恵本人と聴衆の双方に喜んで受け入れられた。
日本のポピュラー音楽における
女性のイメージも多様なものへ
1975年にブレイクして以降、引っ張りだこの人気ソングライターであったユーミンは、歌謡曲におけるこの変化を象徴する存在であった。歌謡曲ソングライターとしての彼女の成功は、『14番目の月』に収録された曲だけではなく、このジャンルの発展に不可欠なものとみなされている1980年代の楽曲群によっても示されている。
1981年、作詞家兼プロデューサーであり、元ははっぴいえんどのメンバーでもあった松本隆は、女性オーディエンスに不評だった「ぶりっ子」というイメージを改善して人気を高めるため、ユーミンに楽曲制作を依頼した。