児玉源太郎などに仕えた「大陸浪人」
国会議事堂や料亭でカネをばらまく
辻嘉六は1877年に現在の岐阜市(美濃国稲葉郡三里村)で生まれた。嘉六という名だが長男であり、嘉七という弟がいる。勉強はできるが幼少の頃から荒くれ者で、中学を中退した後、15歳で吉川組という建設会社に入った。吉川組が満州に進出する際、辻嘉六もフロンティアを求めて大陸に渡った。22歳でのこの決断が、人生を変えた。
日露戦争の開戦前の不穏な時期。辻嘉六はロシア国境近くの吉川組事務所に勤務し、頭角を現した。1900年当時、台湾総督を務め、後に満洲軍総参謀長となる児玉源太郎に見いだされて秘書として仕えるようになり、スパイ活動などで日露戦争勝利のために尽力した。身長155センチメートルと、当時としても小柄な方だったが度胸は抜群だったという。
経済雑誌「ダイヤモンド」の1948年4月21日号には、「日露戦争の時に、台湾総督の児玉源太郎に可愛がられて台湾で何か金もうけをしたらしい」(読売新聞論説委員などを務めた山浦貫一の寄稿)という記載がある。
1925年に発刊された書籍『処世の羅針盤 中堅国民の為めに』(弦泉社)に掲載された「隱れたる立志傳中の人 辻嘉六氏」という文章には、次のような記述がある。
「日露の平和克復するや、彼は飄々然として久し振りに内地に帰った。然し此の時には最早や当年の窮措大(きゅうそだい)では無かった。彼の背後には彼を推輓(すいばん)する一大勢力があり、彼の嚢中には“数百万円の蓄財”があった」
日露戦争が終結した1905年の「百万円」を、現代の価値に換算すると60億円にもなる(国家公務員の大卒初任給の倍率を基に算出)。「数百万円の蓄財」が事実だとすると、100億円、200億円のカネを大陸で稼いでいたことになる。
辻嘉六は日露戦争後、児玉将軍から「帰国して、原敬を助けるように」と指示され、原内閣の発足のために陰になり日なたになり貢献する。
政治家を助けるには当然、先立つものが必要だ。辻嘉六の資金源となったのが、日露戦争以降、中国、台湾で得た利権だった。前出の書籍『処世の羅針盤 中堅国民の為めに』には、中国で複数の鉱山を経営した他、吉林省に当時としては大規模な製材所を所有していたとも記されている。
満州にも進出し国策会社、日滿産業(後の日本化學産業。現在の日本化学産業とは別の会社)を起業して、社長を務めた。
雑誌「實業」1929年2月号によれば、日本国内でも貿易会社、不動産会社、錫鉱(すずこう)鉱山を経営。通信社や新聞社においても社長を務めていたという。
命懸けの仕事をした記録も残っている。
台湾では、児玉の推薦で、生蕃討伐(1895年から続く政府と山岳民族との戦い)に参加し、殊勲を立てたこともあったという。
中国の革命家で、「中国革命の父」「国父」と呼ばれる孫文を東京の屋敷にかくまったこともあった。それだけでなく、孫文らに革命の資金も援助した。ところが、孫文が辻邸にいることを、政敵である袁世凱に密告した者があり、屋敷が、刺客数十名に包囲されてしまった。辻嘉六は、孫文とその部下たちを何とか米国などに逃がし、命を守った。前出の書籍は、この情報漏洩を「(辻嘉六の)終生における最大無二の痛恨事」と評している。
いずれにしても、国内外で身の危険を顧みず成功を収めたことで、辻嘉六は人脈や金脈を築き、「大陸浪人」としての箔を付けた。
彼は常に、裏方として政治家や軍人に仕え、表舞台に立つことはなかった。政治家になる道を諦めたのは、16歳の頃に仕事仲間から無理やりクリカラモンモンを彫られたためだという。石井による取材に、辻トシ子は「(父は)それなりに学問をした人じゃなきゃ国政を預かる資格はないという考えだったんでしょう。それに自分のようなたたき上げの人間は表舞台に出るものじゃないとも思っていた」と語った。
1921年に原が暗殺された後は、若手の政治家を育てることを生きる喜びにした。可愛がった政治家に、前出の大野、後に首相となる鳩山一郎、その子分の林らがいる。
政友会の大物政治家、床次竹二郎(前列左から4番目)と辻嘉六(床次の左後ろのネクタイの男性)
料亭で若手の政治家らをもてなす辻嘉六(左から3番目)
父が辻嘉六の主治医だった縁で辻トシ子の弟分となった元財務相の藤井裕久は、辻嘉六による大盤振る舞いについて、筆者にこう語った。
「辻トシ子から聞いた話ですが、親父(辻嘉六)は、押し入れの中に札束を山のように積んでいた。そして、若い議員が来たら、『好きなだけ持ってけ』と言ったそうです。わずかしか持っていかないやつと、懐にじゃんじゃん入れるやつがいた。政治家として、いいやつと駄目なやつがよく分かるんだという話でした。(使う用途も決まっていないのに、たくさん持っていく人もいる)これはアウトです(笑)。それから、少ししか持っていかないやつもアウト。中道がいいんです」
辻嘉六が、たまに国会議事堂を訪れる際も一民間人とは思えない扱いを受けていた。和服姿で正面玄関にクルマで乗り付けると、さっそく職員が出迎える。辻嘉六が議長室に入ると、議員が次々とあいさつに来る。その目的は、小遣いをもらうためだったらしい。
料亭での振る舞いも並大抵ではなかった。文字通りカネをばらまきながら廊下を歩き、会食の部屋に向かった。芸者からは大人気だったという。
辻トシ子は石井からの取材で、「子どもができた時点で女には渡すものを渡して切れる。それが父の流儀だった。もう会おうとはしない。向こうも玄人だし」と述べている。辻トシ子は腹違いの辻嘉六の息子が5人いたこと、父親のいまわの際に5人の息子を集め、親子を初めて会わせたことを明かしている。辻嘉六が亡くなったのは、いまだ戦後の混乱が続く1948年だった。
児玉誉士夫らによる「近衛爆殺計画」のための
爆弾が辻の事務所に隠され、空襲で大爆発
話を、太平洋戦争の前に戻す。
当時、新宿区加賀町にあった辻嘉六邸には、政治家、官僚、軍人、新聞記者、経営者、やくざの親分たちがひっきりなしに出入りした。そこに利権が渦巻き、情報が集まっていたからだ。
だが、日中戦争が始まって軍部の政治介入が強まり、政党政治が下火になると、辻邸も静かになっていった。ただし、そうした中でも驚くべきエピソードが残されている。
それは、戦後、右翼の大物として成り上がる児玉誉士夫や、当時、陸軍参謀本部作戦課にいた辻政信が、日米開戦直前の1941年10月に画策した「近衛文麿爆殺計画」に辻嘉六が関わっていたらしいということだ。当時、辻政信や児玉は、首相の近衛が米大統領ルーズベルトと極秘に会談し、中国や満州から撤兵する譲歩案を示すのではないかと懸念。和平を模索するためにハワイへと向かう近衛を暗殺しようとした。近衛が横浜港から船に乗るため、大田区の六郷橋を渡るとみた児玉らは橋に爆弾を仕掛け、橋もろとも爆殺しようと試みたのだ。だが結局、日米首脳会談そのものが取りやめになったため未遂に終わる。
この暗殺計画と辻嘉六との関わりは、児玉が、大森実(元毎日新聞外信部長)のインタビューの中で語っている。児玉は暗殺計画に使う予定だった爆弾(ミカン箱の半分ぐらいの大きさの爆弾4つ)について、「赤坂に辻嘉六の事務所があったんです。その2階の押し入れの中に隠しといたんです、厳封して。そしたらあなた、昭和20(1945)年4月24日の赤坂の空襲のとき、吹っ飛んじゃいましたよ」と証言している(戦中戦前の辻嘉六と児玉の関係については本特集の#9『自民党のゴッドファザー・辻嘉六の“遺言状”を公開!児玉誉士夫、米情報機関とのつながりが判明…結党資金を鳩山に差し出した黒幕の遺産の行方〈2026年1月6日(火)配信予定〉』で詳報する)。
なお、このエピソードには「歴史の皮肉」と言わざるを得ない面がある。
児玉、辻政信、辻嘉六は暗殺計画の時点では対米強硬派だったが、敗戦後もしぶとく生き残り、暗躍した。それができたのは、彼らが、戦勝国である米国に、利用価値がある人間として認められたからに他ならない。米国が必死になって進めていた朝鮮戦争への備えや、台湾への軍事支援に協力することで、強かに取り入ったのだ。
他方、近衛は暗殺されそうになった当時、日米開戦回避の可能性を最後まで探っていた。陸軍大臣だった東條英機も、昭和天皇の意を受けて戦争回避を模索した。しかし、両者は戦後、A級戦犯容疑者に指定され、近衛は服毒自殺し、東條は絞首刑に処された。(敬称略)
Key Visual by Noriyo Shinoda













