ダイヤモンドで読み解く企業興亡史【サントリー編】#43写真:毎日新聞社/アフロ

昨年、サントリーホールディングスで10年ぶりに創業家出身者がトップに就任する“大政奉還”があった。創業120年超の歴史を誇るサントリーの足跡をダイヤモンドの厳選記事を基にひもといていく。連載『ダイヤモンドで読み解く企業興亡史【サントリー編】』の本稿では、「週刊ダイヤモンド」1990年3月17日号の記事『ザ・ライバル アサヒ・ニッカ連合がサントリーを急追』を紹介する。ビール事業ではアサヒビールの背中を追う立場だったサントリーだが、ウイスキーも含めた酒類全体ではアサヒを圧倒していた。ところが、87年にアサヒがスーパードライを大ヒットさせると、情勢は一変。アサヒと傘下のニッカウヰスキーの連合はサントリーに肉薄した。記事では、ようやく決着した佐治敬三社長の後継者問題などサントリーの多難に加え、サントリーと因縁浅からぬ関係のアサヒとニッカの躍進について分析している。(ダイヤモンド編集部)

サントリーをアサヒ・ニッカ連合が猛追
ビール・ウイスキーで3者の浅からぬ仲

 今年(1990年)2月末から3月初めにかけて、酒類メーカーの1989年12月期決算が発表され、一喜一憂の業界の中で特に目立ったのが、サントリーの度肝を抜くアサヒ連合(アサヒビール、ニッカウヰスキー)の猛追撃ぶりであった。

 サントリーの89年12月期の売上高は7770億0800万円。これに対してアサヒ連合の売上高は7601億9200万円(アサヒビール6550億7300万円、ニッカウヰスキー1051億1900万円)であった。サントリーとアサヒ連合との差はわずか168億円の少差となったのである。

 続く90年12月期のサントリーの売上高予想は8600億円、対してアサヒ連合は8545億円(アサヒ7450億円、ニッカ1095億円)を予想しているので、彼我の差はさらに55億円の僅少差に縮まるわけだ。この分だと、逆転もあり得るのではないかとささやかれ始めている。

 こんなときは何かが起こるものだ。ビールの販売でシェア50%を割ったキリンビールの本山(英世)政権は今後とも継続だが、かねがね「社内に風通しの良さ」が必要なことを会社幹部たちに説いてきた佐治敬三・サントリー社長は、今年3月末の株主総会で正式に社長職から退き、会長となる予定を決めた。

 その後釜には、佐治敬三氏の息子の佐治信忠副社長(44)か、それとも鳥井信一郎副社長(52)のいずれかで諸説紛々としていたが、結局、新社長には鳥井信一郎副社長が昇格することになった。

 佐治敬三氏はもともと鳥井家の出。鳥井信一郎氏は敬三氏の長兄の息子で、叔父とおいの間柄。信一郎氏は2歳のときに父を亡くし、その後敬三氏が親代わりとなって面倒を見てきたという事情があった。これまでどちらが昇格するかで精力を使い過ぎるといわれた“社内抗争”もひとまず沈静化し、“夢2001”計画に取り組む。

 今のサントリーはなかなか多難だ。数年前の焼酎ブームの後遺症もあって、88年3月期(その後決算を12月期に変更)には、500億円近い有価証券売却益でしのいだ経緯もある。

 こうした隙を狙い、アサヒ連合のサントリー追撃は、アサヒビールのビール部門が大幅にシェアを上げ、また、アサヒビールが72%を出資する子会社ニッカが昨年9月末に東証2部に上場し、260億円の資金を公募増資で調達、ウイスキー類で善戦が期待されている。

 サントリーとアサヒ連合の一挙一動が酒類業界の注目の的となっている。いわば台風の“目”であるが、このサントリーとアサヒ連合は浅からぬ仲なのだ。

 ニッカウヰスキーの創業者である故竹鶴政孝氏は、もとはといえばスコットランド留学後、サントリーの前身である寿屋に入社していたが、志を同じくせず寿屋を飛び出して、自身でウイスキー事業を始めている。

 しかし、サントリーは“ウイスキー王国”を築き、品質本位だが営業の弱体なニッカを苦しめた。54(昭和29)年、ニッカの大株主であった大阪の資産家、加賀証券が不振に陥ったのがもとで、ニッカの株式を持ち切れなくなったほか、他の有力出資者もニッカみたいなもうからないところにこれ以上カネを出してもしようがないと、手を引いてしまった。

 このとき、ニッカの株式を肩代わりし、苦境を救ったのが、当時アサヒビールの代表取締役だった“山爲さん”で知られる故山本爲三郎氏であった。このときから、ニッカはアサヒの傘下に入ったのだ。当時、“山爲さん”は、「竹鶴政孝の“いいウイスキー”だけでは売れない。ニッカが弱いのは営業が駄目だからだ」と、営業の大物を他社からスカウトし、特約店を説得させて、徐々にニッカの流通ルートを広げていった。

 一方で、“山爲さん”は、サントリーが63年にビールに進出したものの、扱ってくれるビール問屋がなく困り果てているのを見かねてアサヒビールの問屋ルートを提供したのである。その“山爲さん”が不運にも66年2月に他界した。

 そのときからアサヒのビール問屋は、アサヒとサントリーの両方を扱うことになったが、その後、69年には、アサヒビールがシェア20%を割り、それからは坂を転げ落ちるように、80年代に入るとしばしば10%のシェアを割る始末。

「週刊ダイヤモンド」1990年3月17日号「週刊ダイヤモンド」1990年3月17日号

 このアサヒの凋落ぶりに対し、ゼロからスタートしたサントリーのビールはぐんぐん伸び続け、落ち込んできたアサヒビールと9%のシェアで並び、一挙にアサヒを抜き去る勢いであった。つまり、サントリーのビールが伸びた分、アサヒビールが減少した勘定になる。結果として「アサヒはサントリーにひさしを貸して母屋を取られた」といわれた。

 親のアサヒが苦戦なら、子会社のニッカも苦戦から抜け出せないでいた。問屋も、アサヒ、ニッカに対しては確実に腰が引けていた。サントリーのずばぬけた資金調達量と宣伝力の前にはアサヒ連合は形無しであった。

 かくして、アサヒはいずれサントリーに抜かれて城を明け渡し、ニッカは後発のキリン・シーグラムに追い抜かれて第3位に転落するのは時間の問題だと、一時はそんなふうにみられたこともあった。

 こうした図式が、ある日突然、急変するのである。一つは、アサヒの躍進であり、一つはニッカの株式上場による資金調達力の向上である。