問題を公にすることで現場を追い込む葛藤
開沼 1冊目を書いた時点でも薄々気づいてはいて、それでもあえてやっていたということはありますか?
磯部 すごく悩んだところです。近田春夫さんが「ドアだけしめときゃ バレないさ」(「Hoo!Ei!Ho!」作詞:近田春夫)と歌ったようなモラトリアムの季節は終わり、ドアを閉めておいてもこじ開けられるようになってしまったからこそ、根本的な問題に立ち向かおうと思いました。
しかし、論じることによって、クラブの多くが違法営業をしていることが公になってしまう。そこで、「表現の自由を守れ!」というロジックを使えばある程度はうやむやにできるわけですが、それは虫がいい話です。果たしてどうすればいいのか、悩みながらつくっていましたね。
社会学者、福島大学うつくしまふくしま未来支援センター特任研究員。1984年、福島県いわき市生まれ。東京大学文学部卒。同大学院学際情報学府修士課程修了。現在、同博士課程在籍。専攻は社会学。学術誌のほか、「文藝春秋」「AERA」などの媒体にルポルタージュ・評論・書評などを執筆。読売新聞読書委員(2013年~)。
主な著書に、『漂白される社会』(ダイヤモンド社)、『フクシマの正義「日本の変わらなさ」との闘い』(幻冬舎)、『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社)など。
第65回毎日出版文化賞人文・社会部門、第32回エネルギーフォーラム賞特別賞。
開沼 飛田新地の方も同じ話をされていました。飛田の内情はこうです、こういう問題がありますとメディアに出た瞬間、問題が公になってしまい、騒ぎになってしまう。とはいえ、「寝た子は起こすな」で本当に寝た子を起こさないでいると、そのまま衰退するというジレンマもある。そのなかでどうやってバランスをとるのかは、普遍的な課題かもしれませんね。磯部さんの著作からは、その普遍性を扱いたいという気持ちもにじみ出ていると思います。
磯部 いわゆるオープンな議論や対話を目指すという主張は、一見、正しいことのように思えますけど、オープンにしていくことによって問題の当事者が苦しめられるケースもあります。今は、オープンとクローズドとのバランスが重要だと考えていて、最近も引き続き風営法の問題には関わっていますが、そのことについてはあまり書く気がなく、取り上げるにしてももうちょっと後なのかな。まぁ、色々と揺れ動きながらやっていますね。
開沼 そこは重要そうですね。揺れ動きについて詳しく教えてください。
磯部 1冊目の中で、宮台真司さんに「新住民」の話をしていただきましたが、キャッチーな言葉なので、その後、クラブと風営法の問題を語る際のキーワードのようになりました。宮台さんは、地域共同体に根差さず、何か問題が起ると、直接、行政に頼るようなクレイジー・クレイマーを新住民と呼んでいます。クラブの摘発が増えているのはそのような新住民のせいでもあると。ただ、クラブそのものが新住民化しているのも否めません。事業者然り、アーティスト然り、お客さん然り。
クラブの中には、地域のことを考えずに騒音をまき散らすような店舗もあります。大阪で風営法の取り締まりが厳しくなったきっかけは、最初に摘発された店舗がアメリカ村の中で派手な営業をしていたからです。やりたい放題して、終いには傷害致死事件まで起こりました。そういったことに関しては、当然、クラブ側が責められないといけないし、かと言って、半ばとばっちりで地域に根ざした良心的な営業をしていた店舗も摘発されているわけで、非常に難しい問題ですね。
開沼 クラブが新住民化しているという話は非常に面白いですよね。あの人は雑貨屋、あの人は居酒屋、あの人はクラブの経営者…といったように、昔ながらの顔が見える関係であれば、お隣さんを気にして、気遣いをできる範囲とできない範囲がある程度明確に区別されている。ところが、そこに新しい人がやって来ると、良いしがらみも悪いしがらみもないために、結果的に街を食いつぶしてしまうと。
磯部 そうですね。「地域共同体による包摂」といった言葉も安易に使われがちですけど、共同体には抑圧もあります。そこから逃れるために、戦後のサブ・カルチャーはオルタナティヴな共同体を形成してきましたが、時間が経つにつれて緊張感を失い、オルタナティブではなく、アンチ社会的な存在になってしまったケースもまま見受けられます。
規制を問題にしつつ騒音のクレームを入れる新住民
磯部 僕は恵比寿に住んでいますが、恵比寿という街は、まさに変化の途中にあります。渋谷から1駅離れているため、かつては、落ち着いた盛り場でしたけど、最近は、言ってみれば“チャラい”街になり、キャバクラやガールズ・バーも増え、住民の間では騒音が問題になっています。
あるとき、自分の家の周りも騒音が酷くて、その店に苦情を言いに行ったのですが、一向に改善が見られず、仕方がないので町内会に相談しようと思いました。しかし、そのときにわかったのは、町内会が機能してないんですよ。それこそ新住民が増え、参加者が減ったためでしょう。町内会長は代々ある家が継いでるんですけど、町内会自体は開かれてないという状態です。そうなると、地域で問題を解決しようにも難しい。
開沼 なるほど。そこで磯部さんはどうされたんですか?
磯部 結局、近隣住民から署名を集めてその店の親会社と話し合ったり、逐一、クレームの電話を警察に入れたりしたわけです。「俺、いまクレイジークレイマーになってるのかな」なんて思いながら(笑)。風営法を勉強しているとわかるわけですよ、この時間はキャバクラが営業してちゃいけない時間だよなとか。まぁ、それをチクるようなことはせず、警察には路上で暴れている人がいるみたいなことしか言わないですけど。
開沼 恵比寿自体は磯部さんの地元ではないんですね。
磯部 妻は恵比寿のまた別の地区の出身ですが、僕は引っ越してきた人間なので、まさに新住民です。そういうふうに、自宅にいるときは騒音問題に悩まされながらも、自分が他の街のクラブに遊びに行くと、地域の人には僕が起こす騒音が迷惑になっているかもしれませんから、クラブだけの擁護はできませんよね。いわゆる過剰規制という側面から見ても、表現の場が規制されているという単純なことでもないし、自分が規制している側でもありますから。
開沼 磯部さんが何度も書かれている通り、私たちはしばしば何か社会におかしなことがあった時、「陰謀を持った強大な権力が国民を支配しようとしている」という図式で見てしまいがちですが、そうではないと。「権力が一枚岩である」と想定しながら盛り上がっていても、実はその背景には、ミシェル・フーコーが言うように、いろいろなところに遍在するような、分散した形で権力があるのが現実だったりもする。つまり、何かを規制したり、おかしな方向に持っていっているのは巨大な権力ではなく、私達自身だったりもします。
一般の、それも善良な意思を持っている市民の中にこそ、自分たちをしばりつけてしまう状況があるわけですよね。僕が『漂白される社会』(ダイヤモンド社)で提示した問題もそうですが、まずはそこに気づくことが大事だと。それは、磯部さんも2冊の本の中でずっとおっしゃっていると思います。自分たちの善意が自分たちを傷つけてしまう状況をどうコントロールしていくか、その段階に進まないと、いつまでも問題を放置したままになってしまう。