地上でいちばん幸せな場所
(The Happiest Place on Earth)
ウォルト・ディズニー
「なんで遊園地なんてつくるの?遊園地なんて、散らかっていて汚いじゃない」
ウォルト・ディズニーが遊園地をつくる構想を話すと、妻のリリーはこんな反応を示しました。すると、ウォルトは喜んで言ったそうです。
「そこがポイントなんだ。僕のはそうならないんだ」
ディズニーはよく家族を連れて世界各国の遊園地に行きましたが、どこも汚くて満足のいく場所とは思えませんでした。ベンチでピーナッツを食べながら「ちょっとはましな、大人も楽しめるところがないだろうか」と考えていたといいます。
アニメーション映画で大成功したディズニーは、やがて遊園地の構想を抱き始めます。ディズニーはそれを「地上でいちばん幸せな場所」(The Happiest Place on Earth)と表現しました。
1953年、南カリフォルニアに世界で初めてのディズニーランドがオープンする二年前のこと。イラストレーターのハーブ・ライマンは、突然ディズニーに呼び出されます。
そこでライマンは、初めてパークの構想を聞きました。「さっそく図面を見せてください」とライマンが言うと、ディズニーは「君が描くんだよ」と彼を椅子に座らせ、目の前に画用紙を広げました。
それから丸2日、ディズニーの口から出てくる言葉をライマンは視覚化していきます。土手の緑地による輪郭や、ドイツの古城をモチーフにしたシンデレラ城、ディズニーの故郷を再現したストリート、蒸気機関車。ライマンが描き起こしたディズニーランドの完成予想図は、ディズニーの兄のロイによってABCテレビに持ち込まれ、出資の契約にこぎ着ける重要なツールとなりました。
このように、ディズニーランドはウォルト・ディズニーの想像の世界が言葉となり、言葉が絵となり、そして現実へと変わった姿なのです。
ディズニーが言う「地上でいちばん幸せな場所」とは、もちろんファンタジーの中の世界のことでした。現実のすべてを忘れて、夢中になれる場所。大人は子どもになり、子どもは大人になれる。そんな世界を実現するために、ディズニーは映画づくりの知恵と先端技術をパークに持ち込みました。想像力と技術力を融合させた力を、彼は「イマジニアリング」と呼んでいます。
まず、重要となるのは敷地です。ディズニーは「パークにいるあいだ中、お客様には現実の世界と思ってほしくない。まったく別の世界にいると思ってほしいんだ」と繰り返し語っています。パークを現実から切り離すために、パークの周囲には土盛りをほどこし、外と中を遮断しました。従業員のスペースやショーのキャストを運ぶ道やトンネルも巧妙に森や茂みに隠れるようにつくられています。
ディズニーランドがオープンするときに、他の遊園地の関係者たちは入り口がひとつなのは大失敗である、と指摘しました。あれだけの広さを持ちながら複数の入り口を持たなければ、混乱と効率の悪化を招きかねません。しかし、ディズニーはひとつの入り口にこだわりました。その理由は「映画を途中から見たら、ストーリーがわからない」から。
ディズニーランドを、場所ではなく、物語と捉えていたことがわかります。ディズニーは、サービスについても理想を持ち、それを周囲に語って徹底させました。
「すべてのお客様がVIP」や、「ショーは毎日が初演」といった言葉は今でも大切に受け継がれています。
その他にも現実を感じさせないために、迷子のアナウンスはしないこと、「夢の国にゴミは落ちていない」と徹底的に清潔に保っていることなど、挙げればきりがないほどのさまざまな工夫が、地上でいちばん幸せな、夢と魔法の国をかたちづくっているのです。
ウォルト・ディズニーに関しては、こんな逸話が残っています。フロリダのディズニーワールドがオープンした日のこと。新聞記者がウォルトの兄のロイに言いました。「ウォルトがまだ生きていたら、この開園の景色が見られたのに」。それに対してロイはこう答えたのです。「いいえ。ウォルトは誰よりも先にこの風景を見たのですよ」ビジョンの大切さを物語るエピソードではないでしょうか。