戦後の「食べられるか否か」という「生理的欲求」の時代から、雇用や身分の安定を求める「安全の欲求」の時代が到来し、それは同時に、会社組織や家族・友人のみならず、学生運動・労働運動・派閥などの絆を重視し、何らかの集団の中に居場所を求める「愛と所属の欲求」の時代でもありました。そして、持ち物のみならず学歴や職業にまでブランドを求め、周囲からの評価や羨望を得ようと躍起になった「認められることへの欲求」の時代の頂点で、バブル経済は崩壊しました。

 多少強引かも知れませんが、このように戦後日本の価値観は、ほぼマズローの言う欲求段階の低次なものから高次なものへと対応しながら、移り変わってきていると言えるでしょう。これはつまり、「エサがとれるか否か」といった動物的な価値観の時代から、より人間に特異的な価値にこだわる時代に移り変わってきているということです。

究極の問いに対して、思わず表れてしまう基本的価値観

 人間の基本的価値観は、どんな価値観が支配的な時代に人格形成期を迎えたかによって、少なからず方向づけられてしまうところがあります。もちろん、それ以外の個別的な要因も大きくかかわってきますが、いずれにせよ一度できあがってしまった基本的価値観は、時代が移り変わっても、深いところではなかなか簡単には変化しにくいものです。

 「なぜ生きるのか?」といった実存的な問いを投げかけられた時に、その人がどの次元の欲求を重視している価値観の持ち主なのかが、その返答に如実に表われてくることになります。

 生理的欲求を重視している人は「メシが食えなければ始まらないだろう」と言い、安全の欲求に生きる人は「まずは安定した仕事に就きなさい」と言うでしょう。所属と愛の欲求を優先する人は「組織(や家族など)のために生きる」と言い、認められることの欲求に生きる人は「社会から認められ尊敬される人間になるために生きる」と言うかも知れません。

 しかし、実存的な問いにさいなまれている人にとっては、これらのどの答えも満足を与えてくれません。なぜなら、この問いは「自己実現の欲求」から発せられたものだからです。

「 恵まれているのに」ではなく「恵まれているから」こその悩み

 たとえば食うや食わずの状況下にある人にとって、「自分らしく生きる」とか「生きる意味」を求めるような自己実現の欲求は、贅沢な悩みと映るかも知れません。人間に特異的な悩みよりも、より動物的な欲求のほうが原始的であるぶん、切実に感じられるからでしょう。

 しかし、今日「うつ」状態にある人々の中には、経済的にも社会的にも十分なものを備えていながら、「生きる意味」が見出せないために、本気で死を望んでいる人が少なくありません。

 このような心境を理解できない人がよく口にするのは、「恵まれているのに、どうして?」という言葉です。しかし、これはむしろ「恵まれているからこそ」表れてきた、人間ならではの特異的な苦悩なのです。

 戦後の貧しさから抜け、急速に経済的発展を成し遂げた国に暮らしている私たちには、生きるうえで何を優先するのかという価値観を、もはや旧態依然とした次元で足踏みさせておくことは許されなくなってきています。今日急増している「うつ」という社会現象は、「食うために」とか「経済的に豊かになるために」といった価値観だけでは生きていけないところまで私たちが来てしまっていることを、厳しく警告しているのです。

次回は、夏目漱石がロンドン留学中に陥った神経衰弱から私たちは何を学べるか、というテーマで考えてみたいと思います。