関東大震災(1923年9月1日)は、童謡の隆盛、レコード産業の成長、そして浅草オペラに代表される大衆文化が開花し、経済成長を続ける日本社会に大きな打撃を与えた。しかし、こうした危機下に流行歌が生まれ、都市の整備が進み、東京はモダン都市に変貌していった。流行歌は東京を主題に織り込んでいく。

「十五夜お月さん」と「船頭小唄」

 野口雨情が雑誌社「金の船」に入り、社員として童謡詩の量産を始めたのは1920年8月からである。「金の船」同年9月号に「十五夜お月さん」(野口雨情作詞、本居長世作曲)が掲載されたことは連載第40回に詳しく書いた。

 雨情は故郷の茨城県中郷村(現在の北茨城市)にもどっていた1918年秋、「枯れすすき(芒)」という詩をつくっている。翌1919年には11月創刊予定の「金の船」の依頼で童謡詩を書き始めているが、この年の8月、中山晋平を訪ねて「枯れすすき」に曲を付けてほしいと頼んだ(野口不二子『野口雨情伝』講談社、2012)。

 晋平は童謡にはまだあまり手を付けていない。「金の船」からの要請には東京音楽学校の教官、本居長世を紹介している。晋平の童謡量産はもっとあとからだ。

「枯れすすき」を受け取った晋平はそのまま1年以上、曲を書けなかった。というより後回しにしていたのかもしれない。晋平の評伝を著した和田登さんはこう解釈している。

「この年(1919年)の正月五日には、松井須磨子が島村抱月の後を追って自殺を遂げている。晋平にしてみれば、恩師にも置いていかれ、彼の歌をうたうカナリアにも死なれ、自分自身の運命の曲折を余儀なくされていた。そんな際に見せられた詩が、また暗い――」(和田登『唄の旅人 中山晋平』岩波書店、2010) 

 つまり、自身の周囲の不幸を考えるとこの詩は気が滅入る、といったところか。晋平が曲を完成させたのは1921年、楽譜の出版が22年前半、レコードが発売されたのは22年9月から23年1月にかけてである(これらの時期については文献により違いがある)。

 レコードは5社から数種類出たようで、歌手も7人以上いる。演歌師がヴァイオリンの弾き語りで流行の片翼を担ったという(倉田喜弘『日本レコード文化史』東京書籍、1992)。楽譜出版時に「枯れすすき」は「船頭小唄」と改題されている。松竹がすぐに映画化し、1923年1月に公開している。

 これが「おれは河原の枯れすすき 同じお前も枯れすすき」と続く流行歌「船頭小唄」の誕生である。晋平にとっては「カチューシャの唄」など芸術座の劇中歌から離れて、最初の流行歌としてヒットした曲だ。ただし特定の歌手とは結びついていない。